2014年 中村講中の皆様と石川〜新潟県方面へのお寺詣り(^.-)☆ <10/10> |
根本中道をスルーしましてからは早足で向かいましたのが戒壇院。◆延暦寺 戒壇院(かいだんいん)・重要文化財建造物(大津市坂本本町)戒壇院は、桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)三間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、正面に軒唐破風(のきからはふ)をつけています。外観からは、裳階(もこし)をつけていることから、二重屋根のように、また、柱間も方五間の建物のように見えます。
この戒壇院も、近世に復興されたもので、延宝六年(一六七八)に建てられたと伝えられています。和様・唐様両様式を合わせもち木部に丹や黒の色彩を主に施し、内部は石敷で、石の戒壇を築いています。延暦寺にあっては戒壇院は「戒壇」として意義のあるものです。
明治三四年(一九〇一)八月に国の重要文化財に指定されました。--- 平成五年(一九九三)一〇月一日 大津市教育委員会 ---そして、次に向かいましたのが阿弥陀堂。◆阿弥陀堂昭和12年(1937)に建立された、壇信徒の先祖回向の道場です。本尊は丈六の阿弥陀如来です。一般の方々の回向法要もしております。
またお堂の前には、水琴窟があり、美しい響きを聞くことができます。この阿弥陀堂の左に存在しますのが法華総持院東塔。◆法華総持院東塔昭和55年に阿弥陀堂の横に再興されました。伝教大師最澄は日本全国に6か所の宝塔を建て、日本を護る計画をされましたが、その中心の役割をするのがこの東塔になります。
本尊は大日如来をはじめとする五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されています。…と、こんな感じで東塔の区域を早足で廻りましたけど、そそもそも比叡山延暦寺とは、◆比叡山 延暦寺最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称であり、「延暦寺」という寺そのものは存在しない。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。…との事であります。GONsanが観て廻りました東塔は、◆東塔東塔は延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域です。
伝教大師最澄が延暦寺を開いた場所であり、総本堂根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっています。
東塔地域には、延暦寺バスセンターがあり、比叡山山頂、西塔、横川地域へのシャトルバスや京都市内行きの路線バスに乗車することができ、また坂本ケーブルを利用して門前町坂本へ降りることもできます。
境内には、宿坊延暦寺会館があり、食事や宿泊、修行体験をすることもできます。…と、こんな区域であり、もし時間が許せましたら、日蓮上人・親鸞聖人が修行されました横川(よかわ)地区も観たかったのですけど、次の機会に回さなければなりませんのがチト残念ではありましたネ(^-^)//"
阿弥陀堂周辺の眼に入ります景観を画像に納めておりましたら、何と言う建物かは分かりませんけど、菊のご紋の入りました黒塗りの車が駐まっておりました(^.-)☆
建物脇の提灯・垂れ幕にも同様に菊のご紋。う〜ん、どなたが此処を訪れておられますのでしょう…失礼とは思いながらも暫し注視しておりましたら、お上人さんらしきお方が乗車です。
勿論、どなたかはGONsanなんぞに分かるはずがありません(^-^;
どうも、お迎えの車でしたのかも…こぅしてGONsan独りが見つめておりましたら不審者と勘違いされましても堪りませんから、サッサと退散です。
この後は、阿弥陀堂後方の林方向に進行です。「横川地区→」の表示が眼に入りまして「んっ?!」と思いながら歩いて行きましたら、どぅも墓地らしい気配。
見廻しますと「筆塚」が存在しておりました(^.-)☆このまま歩いて行きますと横川地区に行くことが出来たのでしょうけど、勿論、そんな時間はありませんから、これまたサッサと退散となりました(^-^)//"
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