2014年 中村講中の皆様と石川〜新潟県方面へのお寺詣り(^.-)☆ <1/10> |
■2014年07月09日
2014年・中村講中の皆様と石川〜新潟県方面へのお寺詣り(^.-)☆
6/27(金)〜6/29(日)は、町内で親しくさせて頂いております中村講中の皆様と恒例の年に一度のお寺詣り。
今回は、新潟県の妙法寺・石川県の妙成寺の2ヶ寺へのお参り。当初は、5月下旬の平日3日間での計画。
平日ですとGONsanなんぞは勤務の関係で参加不能。ですから今回は参加しません予定でしたけど、参加者があまりにも少ないとの事で6月に延期。
こんな経緯もありまして、幸いにも参加可能となりました(^.-)☆いつものように初日の夜は車中泊。
6/27(金)P.M.8:30に町内集会所駐車場に集合で、定刻直前に出かけましたのは、これまたいつもの通りGONsan夫婦のみ。
毎回、皆様、随分早いご集合で恐縮してしまいますけど、同時に感心もしてしまいます。何でいつも早いのだろう?…と(^-^)参加者は、総勢18名でありました。
前回より4名ばかり少ない参加者のようでした。が、バス車内は定員の半分にも満たない状況ですから、実にユッタリしたもの(^_^)v
車中泊ですから、その方がイィのでありますが(^.-)☆今回は2ヶ寺のみのお詣りですから、新潟まで出かけましても行程的には余裕がありますかも…
とにかく定刻少し前に、いざ出発となりました(^-^)//"
バスが走行開始と共にウトウトと浅い眠りに入ってしまいましたGONsan。
ハッと気が付きますと、第1回目のトイレ休憩となりました(^.-)☆場所は何処?…と、見廻しますと岡山の吉備SA。ふん、ふん、まだ岡山市でしたねぇ〜
喫煙コーナーで一服しておりますと、堂々とした歩きのニャンコが近くまで(^-^)
ノラsanなのかも分かりませんけど、決して痩せこけてもおりませんで、それなりの立派な体型のニャンコ(^_^)vこぅして観光バスがヤッて来ます度に近くまで出て来まして、食べ物でも戴くのでしょうか…
別に、「何か欲しい」と言っているようでもないのですけど、さりげなく至近距離に。
近付きましてカメラを向けましても、逃げもしません。で、3枚ばかりパチリとなりました(^.-)☆10分程度の休憩を終えますと、またバスは走行開始。
日頃寝不足気味のGONsanですから、せめてこんな時には寝不足解消を試みませんと…
車内に戻りますと、スグに今度は深い眠りに入りましたGONsanでした(^-^)//"
深い眠りに入りましたGONsanで、途中、何度かトイレ休憩がありましたのでしょうけど、眼が醒めましたのは米山SA(下り)に到着時でありました。
時間はと見ますと、A.M.5:12。
行程表では、米山SA到着はA.M.6:30でしたから、順調な走行で予定より1時間少々早く着きましたようですネ。ですから、ここでは2時間近くノンビリと過ごすことが出来ましたようです(^_^)v◆米山SA(下り)米山サービスエリアは、新潟県柏崎市の北陸自動車道上にあるサービスエリアである。
新潟中央方面は米山ICに併設されており、SAからICに出ることはできるが、ICからSAに入ることはできない。新潟中央方面は、当SA手前数キロからの区間で脇見事故が多発したため、休憩はSAで行うよう注意喚起看板が設置されている。また、上り線の入り口には逆走による事故防止のため、「逆走とまれ」と大きく書かれた看板が設置されている。供用当初は朝日インターチェンジと名立谷浜インターチェンジ間が開通していなかったこともあり、ハイウェイショップ、スナックコーナー、ガソリンスタンド、トイレとパーキングエリア並みの施設であった。佐渡米山弥彦国定公園に位置する、ロケーション抜群のSA。正面には霊峰・米山が広がり、敷地裏手からは日本海に浮かぶ佐渡島を眺めることができる。沈みゆく夕日に染まる海と佐渡島のシルエットは、北陸道でも指折りの美しさ。夕方の時間帯を狙って、休憩も兼ねて絶景を堪能したい。…と、WEB上で「米山SA」を検索しましたら、こんな記載がありました(^.-)☆とにかくここでは時間がタップリありますから、洗顔・朝食等でユッタリと休憩。
SA裏の日本海側では、展望台より日本海の眺望を楽しめます。はるか沖合には佐渡島が肉眼でハッキリと捉える事が出来ました。が、画像には鮮明には撮れません(^-^;
微かに写っていると言った状況でありました(^-^)//"
米山SAを後にしますと、また北陸自動車道を走行です。
そして、西山ICから国道116号線に降りまして北上し、JR越後線の妙法寺駅西方の『妙法寺』に到着しましたのがA.M.7:57。予定より20分少々速い到着となりました(^.-)☆今回の一ヶ寺目の訪問地であります妙法寺を、同寺のホームページ記載よりご案内致しますと、◆妙法寺・所在地:新潟県長岡市村田1124・妙法寺のあゆみ新潟県の中央部長岡の西北に流れる信濃川の川岸流域、大河津分水路に近い、長岡市村田にある法王山妙法寺は、徳治元年(1306)に大成弁阿闍梨日昭上人を開祖として信昭公によって開創されました。日昭上人は、六老僧の一人で承久三年(1221)に下総(千葉県)に生まれました。師である日蓮聖人より一歳年上で、嘉禎元年(1235)15歳で出家し、成弁と称しました。
その後比叡山にのぼり天台の教観を修学しました。日蓮聖人との出会いはこの比叡山ではなかったかと推察されます。日蓮聖人が建長五年(1253)に立教開宗した後、清澄を下りて鎌倉在住の頃、その学徳を慕って膝下に参じ、師弟の契りを結んだといわれます。
日蓮聖人は日昭上人を弁殿と呼び、もし自身が法人に倒れたなら、自分に代わって教団を指導する人物とみなしていたといわれます。
以後日蓮聖人の生前歿後にわたり鎌倉で教えを広め、元享三年(1323)103歳で入寂しました。妙法寺の開基檀越は当時の信越両国の大守・風間信濃守信昭公ですが、信昭公は幼い時、鎌倉にて日昭上人の教えにふれ、その法力によって長寿を保ちこれが縁となって日昭上人の一字をもらって、信昭と号したといわれます。
以来、信昭公は日昭上人の外護者となり、上人のために浜土に法華寺を創り、また宗祖第二十五回忌にあたり、相州・名瀬に妙法寺を開きましたが、北越の地に法華の道場がないこと憂い、日昭上人を開祖として名瀬の寺を村田に移して北陸道における仏法興隆をはかりました。これが法王山・妙法寺となりました。以後これによって風間氏が寺領三百五十石を附し、一宗の本山たる寺格を整えました。
この開基檀越である信濃守信昭公が活躍した時代は、南北朝時代であります。建武の新政時代(1334)から新田義貞の戦死(1338)まで新田氏の部下として出陣しました。新田氏は、後醍醐天皇政権確立後、越後守として越後に入り越後武士を統率することになり、士豪であった信濃守は新田貞義の軍人に属し、転戦することとなりましたが、足利尊氏の反旗により下越地方の豪族は尊氏に呼応して立ち上り、越後の豪族は新田方と足利方とに分裂し抗争を展開することとなりました。両軍の戦いは熾烈を極めましたが、次第に南朝軍(新田氏)が劣勢となり、延元三年(1338)越前・藤島城を包囲した北朝軍(足利方)は、南朝軍を討ち破り、潰滅的打撃を与えました。これによって新田氏は歴史の手からころげ落ちることになり、南朝軍は主を失いました。妙法寺も開基檀越である信濃守の戦死などがあり、多大な影響を受けることとなりましたが、歴代住職の努力によって復興も進み、旧観を偲ぶに至りました。・妙法寺の歴史--- 徳治 元年(1306) ---六老僧大成弁阿闍梨日昭創立。信越両国大守風間信濃守信昭、開基檀越。元々、鎌倉名瀬(現在横浜市戸塚区)の妙法寺が旧跡。
信昭は鎌倉幕府在勤中に日昭の教科を受けて入信。 宗祖二十五回忌にあたり信昭は日昭開創とし、名瀬に妙法寺を開く。しかし、信昭出生の北越の地に法華経の道場が無いことを憂い、日昭を開祖として名瀬の妙法寺を村田に移し北越弘教の根本道場とした。 二世出羽阿闍梨日成は信昭の弟、三世円隆院日運は信昭の実子と伝えられる。十一世大乗院日弘の弟子にあたる十二世伝灯院日南は管領上杉憲政の子であるといわれる。
四十二世潮文院日逞は身延山五十五世を、四十六世不老院日仲は身延山六十四世を継いでいる。…と、こんな歴史のあります古刹のようです。
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