2014/05/10-11 代理出席で鹿児島行きとなりました(^.-)☆ <12/12>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仙巌園の景観を楽しみますと、今回の研修旅行の日程は凡て完了となりました。
 後は、福山に向かいます新幹線乗車に間に合いますよう、鹿児島駅に急ぐのみ。
 
 ですが、その前に、途中停車で西郷さんの像を拝見です(^.-)☆
 当初は、初日の行程に入っていたのですけど、2日目に見物出来るから…と翌日廻し。
 ガイドsan、お忘れにならず、お約束通り最後の最後に西郷隆盛の像に私達をご案内です。
 
 なんでも西郷さんのお孫さんはご健在だそうで、お孫さんのお顔はこの像の顔とソックリなんです…とは、ガイドsanの説明でありました(^-^)//"

 

 

 

 中央公民館・宝山ホール前の広場横にバスを駐めて頂きましたので、皆さん下車し思い思いに西郷sanの像に向かってパチリです(^.-)☆
 仲々堂々としたお姿です(^_^)v
 
 そして、宝山ホール側の広場端には「小松帯刀」の像も。
 NHKの大河ドラマ「篤姫」に登場しました小松帯刀が、実際に篤姫と面識がありましたのかどぅか分かりませんけど、WEB上で検索しますと、小松帯刀についてこんな記載がありました(^.-)☆
 
 ◆小松帯刀のプロフィール
 
 NHKの大河ドラマ「篤姫」で注目されているのが、俳優の瑛太さん演じる肝付(きもつき)尚五郎こと小松帯刀(こまつ たてわき 1830-1878年)である。彼は、薩摩藩家老として西郷隆盛、大久保利通などの下級武士を登用・抜擢し、明治維新を裏面から支えた人物と評価されている。
 
 ◆彼の功績
 
 小松帯刀は、幕末史上なじみのない人物ではあるが、強い意志と明噺な頭脳を持ち、藩主島津(なりあきら)の側近として、西郷隆盛、大久保利通などを登用・抜擢した。
 下級武士に過ぎなかった西郷隆盛や大久保利通、一介の浪人であった坂本龍馬が幕末に存在感を持つ活動が出来たのも、薩摩藩家老という地位を持った小松帯刀の支援協力があったからで、明治政府樹立に向けて、小松帯刀の存在は大きかったというのが見直されている理由である。
 
 小松帯刀は、鎖国という状況のもとにあって、掟破りとも言える発想で西洋の技術や文化を積極的に採りいれた。藩主島津斉彬の意をうけて1861年には長崎で洋水雷、砲術の知識を学ぶとともに、オランダ艦船に搭乗し軍艦の操縦術を習得。
 家老就任後には、生麦事件に端を発した薩英戦争(1863年)でイギリスと戦火を交え、その科学技術力の高さを身をもって体験したことからも講和成立後は一転して英国との親交を深め、留学生を派遣するなどして先進技術の導入に取り組んだ。
 
 幕末維新期に活躍した英国の辣腕外交官アーネスト・サトウは、薩摩藩家老として、西郷隆盛、大久保利通といった下級武士を登用・抜擢し、明治維新を裏方として支援した小松帯刀について、次のような人物評を残している。
 
 「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず政治的な才能があり、態度にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。」(一外交官の見た明治維新〜岩波文庫〜)
 
 ◆京都での活躍
 
 斉彬を継いだ島津久光が上洛した際には、同行。京では側詰・側役として、朝廷や江戸幕府、諸藩との連絡・交渉役を務めたことから、土佐藩士の坂本龍馬と親交をもった。のちの海援隊となる亀山社中創設、お龍との結婚の際には世話役を務めるなど、なにかと龍馬を支援している。
 
 ◆正妻・京都妻
 
 小松帯刀は、1856年・22歳のとき婿として吉利(現日置市)領主・小松家に入り、当家の娘お近の婿養子として家督を継いだが、お近との間には子どもができなかった。
 
 ところで、小松には京都妻がいた。文久3(1863)年頃、薩摩藩家老・小松帯刀は、京で祇園の芸妓・お琴と出会う。当時、小松は朝廷と幕府が協力して政治にあたる「公武合体」実現のために奔走していた。同じ志の公卿や諸侯の間をとりもつべく、上洛した薩摩藩主・島津久光が主催する宴席がしばしば開かれていた。お琴はその座敷に呼ばれていた。
 
 やがてお琴は小松に身請けされ、来訪者の接待役という名目で京都の小松邸で暮らすこととなる。9歳年上の正妻・お近との間には子がなかった小松ではあるが、お琴との間には3人の子をもうけた。
 
 明治3(1870)年、小松が36歳で死去。その4年後に,お琴も27歳の若さで病死。正妻・お近の寛大なはからいで、お琴は小松家の墓所に葬られた。
 
 小松帯刀が京都妻・芸妓のお琴とくらした京都邸は、関白摂関家・近衛家の邸宅「近衛殿」(旧桜御所 現・上京区堀川通一条東入ル)内にあった可能性が高いという。ここは,江戸時代中期の関白だった近衛基煕(もとひろ・1648-1722年)の邸宅があった場所である。元禄15(1702)年、基煕は島津家の援助によって、この地を購入した。以来、この屋敷は近衛家の別邸として「御花畑」と呼ばれた。
 
 烏丸今出川交差点近くにある同志社大学今出川校舎に、かつて薩摩藩邸があった。そこから西に300メートルほど西に同大学の新町校舎が、「近衛殿」跡でもある。2008年の7月、京都歴史地理同考会(理事長・中村武生氏)によって、この地の近くに「小松帯刀寓居(ぐうきょ)参考地」と刻まれた石碑が建立された。
 
 …と、こんな小松帯刀ですけど、彼がもぅ10年…もぅ15年ばかり長生きしておりましたら、日本の歴史もいくらか変わっていましたのかも分かりませんねぇ〜
 とにかく、立派な人物でしたのでしょうねぇ(^-^)//"

 

 

 

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