2013 ふれあい文化祭『史跡めぐり』 <3/3> |
次にヤッて来ましたのは、洗谷貝塚跡地。■洗谷貝塚跡地貝塚の発見は昭和8年7月下旬頃、水呑尋常高等小学校の橘高武夫訓導によって洗谷貝塚跡地と水呑浜貝塚が同時に発見された。早速、沼隈郡教育委員会会長小川清一氏・浜本鶴?氏・橘高訓導に依って発掘計画が立案されると、誠之館中学の先生と生徒50名の協力もあって、同年の30日、31日の発掘が実施された。その時の発掘遺物は小学校に持ち帰られ、現在は井上記念館に保管されている。直径は70〜80mに及ぶ面積と出土遺物量は県内随一と呼称されていた専門家の先生からは、「Aクラス級の遺跡」と高く評価され、貝塚全体の保存対策の必要性が強調され「国・県の史跡指定を受ける価値は充分」として貝塚の完全保存が検討された事もあったが、何時しか史跡指定は立ち消えとなった。その後、昭和10年と16年に、府中中学豊元國教授に依って発掘が進められた。その時の出土した石器や土器などは豊教授に依って持ち帰られ、現在は府中高校に保管されている。昭和45年から貝塚の東部の一部が埋設され宅地造成が進められたことから、昭和46年8月、県・市教育委員会の依って50uが緊急発掘された。その際特に注目されのが、貝塚が破壊されずに保存状態が良好な点で、その時出土した縄文土器は蜜柑箱20箱分に達した。また従来地の縄文遺跡や貝塚で見られなかった、土中に埋蔵された安山岩(サヌカイト)の集石遺構が発見されたことである。集石遺構は2箇所にあって、その量は安山岩34枚で重量45kgと多量であった。
縄文人が鉄の代わりに用いた石器は、硬度と加工性が要求された石であったが、福山地方では適当な石が無かったため、四国の坂出市にある金山から産出した安山岩を私用していた。洗谷の縄文人は瀬戸内海を渡り約60km先から原石を持ち帰り貝塚の下地に保管し、石器加工を行い周辺の縄文人に分配していた可能性が高い。多量の安山岩の発見から他の地域と交流があったことが裏付けられる。
貝塚で県内最古の港であったことは確かで、海と備後を結ぶ交易中継拠点貝塚だったようである。以上、発掘結果を総合的に判断すると、貝塚は現在より約8,000年以前に始まり、縄文人は安住して漁労や採取を行い生活していたことが判明した。
出土土器は縄文時代早期・前期・中期・後期・晩期土器に及んでおり、他に2,400年以前に始まる弥生時代土器もあり、続いて1,700年以前から1,300年前にかけての古墳時代の土器も出土している。出土土器は石鏃(矢尻)、石匙、石錐、石槍、石斧、石鐘、石刀、磨石、安山岩原石、骨角貝製品、貝輪、貝包丁、貝鏃、骨製尖頭器、骨針、鹿骨、猪骨、魚骨、鯛、黒鯛、エイなど。貝の種類はハイガイ、ハマグリ、アサリ、スガイ、ツメタガイ、アカニシ、レイシ、フトヘタナリ、イボウミニナ等。…と、こんな洗谷貝塚跡地のようであります(^.-)☆
洗谷貝塚跡地を見学しましてからは、また暫く歩行です(^-^)途中、畑に珍しい形のサボテンらしき物が眼に入りましたので、パチリ(^_^)v
すると畑で農作物の手入れをしておられましたご年配の女性が、「今日は何事なの?」と尋ねられますので、「ふれあい文化祭の『史跡巡り』なんです。つぃさっき、洗谷貝塚跡地を見てきました…」と応えますと、「あぁ、そぅですか(^_^)未だに草取りをしていますと貝塚の遺構が出て来ますよ、一昨年には、この畑で鏃が出ましたよ(^.-)☆」との事でした。洗谷貝塚跡地の前には工場が存在しましたけど、この工場の底地は調査されていませんとか…
いつの日かこの工場の建て替えが実施されまして、底地を掘削するような機会でも訪れましたら、また遺構の調査が行われますのでしょうねぇ〜
その時には、今度は何が出土しますのでしょうねぇ〜こんな事を考えますと、結構楽しいかも分かりません。
が、その時にはGONsanも既にこの世にはいませんかも(^-^)そんな事を考えながら歩いておりますと、住居の2階のベランダからワンchanが覗いてGONsan達を見下ろしておりました(^.-)☆
カメラを向けますと、サッサと顔を引っ込めましたけど(^-^)
洗貝塚跡から暫く歩きまして、次は、水呑八幡宮跡にと到着です(^.-)☆■水呑八幡宮跡瀬戸町長和の福居八幡神社は、水呑八幡神社と祭神を同じくしていたが、長和と(御旅所)水呑で再三の口論があり幣帛を持ち帰るが、現在跡地として石碑がある場所とは多少違っているとのことである。奪い取った幣帛を志田原の彦佐岐神社の「おらび八幡」のところに持ち帰り、さらに次の若者が幣帛を持って洗谷一本木(当時は海岸)まで持ち帰ってここに投げ込んだ。時に1570年(元亀元)8月15日のことであったとのこと。(1999年11月13日史跡巡りより引用)
ここを、宮の段という。八幡神社のご神体については、水呑に限らず我が村、我が地域に一つ祀って、八幡さんを年中行事の祭典の一つとして、皆で崇拝して楽しむと言う事は、その時代やその時に後生に伝えようとする大事な行事であったと思う。昔はことさらそうした精神的なよりどころが必要であったり、その土地の人たちにとっては今以上に強烈なものがあったと思われる。…との事である(^-^)//"
妙蓮寺境内の一角に祈念碑が存在しましたので、近付いてみますと「橋等先生祈念碑」と刻まれてありました。
橋等…と言いますと、GONsanが中学生時代の法務大臣でありました(^.-)☆橋等・元法務大臣も、この妙蓮寺が菩提寺でしたのですねぇ〜
WEB上で検索してみますと、こんな記載がありました。■高橋 等出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索: 高橋 等(たかはし ひとし、1903年3月20日 - 1965年8月10日)は、日本の逓信官僚、政治家。法務大臣。広島県福山市深津町出身。福山中学校(現・福山誠之館高校)から1921年、第六高等学校を経て1927年、東京帝国大学法学部卒業。
逓信省入省後、札幌・熊本通信局で幹部を務めた後、逓信省簡易保険局管理課長、商工省金属回収本部総務課長、広島商工局商工部長を歴任し、軍需省では大阪燃料局長などを務めた。終戦後の1949年、旧広島3区から第24回衆議院議員総選挙に出馬し当選、以降在職中に死去するまで連続6回当選(当選同期に佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・中川俊思・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。自民党に所属し1956年石橋内閣、1957年第1次岸内閣で防衛政務次官を務め、その間自由党政調会内閣部長、自由党国会対策副委員長などを歴任。
同郷の池田勇人に近く池田の懐刀ともいわれ与野党間の折衝に尽力した。短い頭髪、鋭い眼差しは人目を引く存在であった。1964年、第3次池田内閣、同年11月に第1次佐藤内閣の法務大臣を務めた。1965年8月10日、62歳で死去した。勲二等旭日重光章受章。
高橋の死後、地盤は参議院議員だった宮澤喜一が引き継いだ。…と、こんな元法務大臣・高橋 等さん。
62歳と若くしてお亡くなりになられましたけど、お元気におられましたら、日本を指導されます著名な政治家としての人生を歩まれましたのでしょうけど…う〜ん、残念ですネ。
もぅ随分昔の事ですけど、GONsanが高校入学時に「法務大臣・橋等」のお名前で祝電を頂きましたのを未だに鮮明に覚えておりますけど、何故、祝電を頂いたのかは分かりません。亡父が郵政マンでした関係なのかも…亡父が存命中に尋ねてみましたら良かったのかも分かりませんけど…
いよいよ今回の史跡巡りの最後の訪問先であります「妙蓮寺」へとヤッて来ました。
危惧されました空模様も、どぅにか持ってくれましたようですネ(^.-)☆
◆妙蓮寺
真宗大谷派 妙蓮寺(東本願寺末寺)山号は宝池山
開基 --- 福山藩主 水野 勝成
開山 --- 大貳上人 水野 勝次
創建 --- 寛永元年 1624年
この寺は、水野勝成の慈母(法名 法正院釈妙舜尼)が卒去し一周期を迎えるにあたり、菩提寺として、築城の余財を持って城南(西桜町)に創建したとのこと。
また、この地に移転して来たのは昭和47年(1972年)とのこと。
この水呑町には、日蓮宗6ヶ寺と妙蓮寺として7ヶ寺あります。--- 妙蓮寺由緒より ---
私達は突然の訪問で、勿論、アポも取ってはおりませんけど、妙蓮寺のご住職は仲々のジェントルマンでおられますようです(^_^)v
ご多忙の中、わざわざお時間を割いて頂き、私達の大半は日蓮宗だと言いますのに、ご丁寧に妙蓮寺の由緒をお話し下さいました(^.-)☆後でわかりましたけど、私達がお話しを頂き本堂を後にしましてから、この日、法要を営まれます方々が妙蓮寺にヤッて来られましたから、ご住職は本当は私達に時間を割かれます余裕はお有りでは無かったのでしょうに…
にも拘わらず、私達が地元・水呑の住民と言うことだけでご丁寧な応対…
何となく心が洗われましたような感じでしたネ(^-^)GONsanの祖母がお寺の娘(浄土真宗)の関係で、我が家も真宗のお寺と縁戚関係にありますけど、こうした本堂を拝見致しますと、いかにも真宗の本堂言う感じですねぇ〜
幼い頃は、こんな本堂を走り廻って遊んでおりましたけど、日蓮宗の本堂と少し趣が異なりますので、幼少時に想いが向きまして実に懐かしい感じが漂いましたGONsanでありました(^-^)//"
この山門、ご住職のお話しでは何か由緒有ります山門のようでしたけど、申し訳ありません。
GONsanはよそ見しておりまして、聴き漏らしてしまいました(^-^; で、何と説明されましたのか分かりません。が、画像には納めさせて頂きました(^-^)とにかく、今回の史跡巡りは、これでオシマイとなりました。
後は、迎えの車の到着まで暫し待機の時間を利用しまして、参加者の皆様の様子を撮らせて頂きました。こぅして参加者の皆様を見廻しておりますと、毎回顔ぶれは同じような感も…
水呑町内の史跡巡りですから6回ばかり参加させて頂きますと、また最初のコースから巡りますので、2度目、3度目と参加されます方は少なくなってしまいます。それも仕方ないですけど…まぁそのような事はさて置きまして、自分が暮らしています町内の史跡に精通しますのは、イィものではありますネ(^-^)//"
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