2013/05/24〜05/26
2013 中村講中の皆様と東北方面のお寺巡り <9/12>

 

 

 

 

 鬼怒川温泉とお別れし、この日の最初の訪問地は「日光東照宮」でありました(^.-)☆
 
 ■日光東照宮
 
 日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。
 
 東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得る。さらに、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。
 
 ◆沿革
 
 元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。
 遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)、下野国日光に改葬された。
 同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。
 なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。
 
 寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築、すなわち寛永の大造替が、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて着手される。
 総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、そして普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。
 
 この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。
 国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。
 
 家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。
 家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と述べている。
 
 家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。
 
 明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、一部の施設について東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中のものがある。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。

 

 ◆勝道上人
 
 日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)により開山されました。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。
 
 江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えております。

 

 

 ◆日光山 総本堂 三仏堂(さんぶつどう)
 
 【重要文化財 世界遺産】
 
 輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。
 現在の建物は、正保2(1645)年、徳川三代将軍「家光」公によって建て替えられました。
 三仏堂の前には、推定樹齢500年という、天然記念物に指定されている「金剛桜」(こんごうざくら)が植えられています。
 
 三仏堂の内陣には、日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)という三体の大仏さま(高さ8.5メートル)と、東照三社権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏がご本尊さまとしてお祀りされています。
 
 ◇「三仏堂」 保存修理のお知らせとお願い
 
 三仏堂は、約50年ぶりの大修理(平成19〜30年度・予定)が始まり、一部が仮囲いで覆われたり、通行場所が制限されております。
 皆様のお詣りには出来るだけ支障のない様に進めておりますが、何かとご不便をお掛けすることもあろうかと存じます。なにとぞご容赦の程、お願い申し上げます。
…との記載がありましたネ(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 ◆相輪塔[日光山輪王寺]
 
 輪王寺三仏堂の後方にある、高さ13mの青銅製の供養塔。1643年(寛永20)、徳川3代将軍家光の命を受け、天海大僧正が比叡山の相輪塔にならって造立したといわれる。
 塔内には1,000部の経典を収蔵。4本の副柱に支えられた塔身には24個の金鈴と金瓔珞「ようらく」の装飾が施され、この鈴風にあたると、人間はもちろん鳥獣草木に至るまで仏の功徳を受けられるといわれる。

 

 

 

 

 

 

 ◆石鳥居--いしどりい--
 
 黒田藩52万石の藩主、黒田筑前守--ちくぜんのかみ--長政が元和--げんな--4(1618)年に奉納した石造りの鳥居で、高さ9メートル、柱の太さ3.6メートル、柱の中心の間隔が6.8メートル。京都八坂神社、鎌倉八幡宮のものと合わせて日本三大石鳥居と呼ばれるが、江戸時代に建てられた石造りの鳥居としては日本最大。
 
 後水尾--ごみずのお--天皇が書いた「東照大権現」の額だけでも畳1枚分の大きさがある。
 使われている石は筑前(福岡県)産の花崗岩--かこうがん--で、エジプトのピラミッドなどと同じ、土嚢--どのう--を積む方法で引き上げた15個の石材で組み立ててある。
 石材を心棒で継ぎ、柱の上に渡した笠木--かさぎ--・島木--しまぎ--は軽量化のため空洞がある。
 
 こうした耐震設計の働きで、昭和24(1949)年に日光を襲った地震のときは、最初の強い揺れでかなりずれた継ぎ目が、余震で元の位置に戻ったという。
 
 ◆照降石--てりふりいし--
 
 石鳥居を見上げる石段は、上にいくほど横幅が狭く、段(蹴上げ--けあげ--)が低い。
 わずか10段の石段を実際以上に高く、遠く見せる遠近法を利用している。10段目、中央の敷石が「照降石」で、斜めに分かれた茶と青の色の違いが強まると、翌日から天気が崩れるそうだ。

 

 

 ◆五重塔
 
 ・石鳥居の左手にある高さ約36メートルの五重塔
 
 若狭--わかさ--(福井県)の小浜--おばま-藩主、酒井忠勝の寄進で慶安--けいあん--3(1650)年に建立されたが、文化--ぶんか--12(1815)年に焼失し、3年後の文政--ぶんせい--元(1818)年に忠勝の子孫、忠進によって再建された。
 
 高さは約36メートル。内部は吹き抜けになっていて、中心を貫く直径60センチの心柱--しんばしら--が4層(4階)から鎖でつり下げられ、その最下部は礎石の穴の中で10センチほど浮いている。
 
 建物が揺れても重心は常に中心にあって倒壊を防ぐ耐震・耐風対策といわれる。
 また、年を重ねると木材が縮んだり、建物自体の重みで屋根が沈み、建物に隙間--すきま--が生じる。そこで心柱を浮かせれば、屋根の下降とともに心柱も下がり、隙間が生じないというわけだ。
 
 初層から4層までは屋根の垂木--たるき--がまっすぐ平行の和様、5層は垂木が扇の骨のように放射状で曲線の唐様--からよう--になっている。初層を飾る動物彫刻は子--ね--(ネズミ=北)、卯--う--(ウサギ=東)など十二支で方角を表している。
 
 …との事です(^.-)☆

 

 ◆表門--おもてもん--と仁王--におう--
 
 表門は正面左右に「阿吽--あうん--」の仁王像(身長4メートル)を安置しているので、昔は仁王門と呼ばれていた。
 仁王は仏教の守り神。明治4(1871)年実施の神仏分離で、この仁王像は大猷院--たいゆういん--の仁王門に移された。それ以来、門の名称も表門と呼ばれるようになった。仁王像が戻ってきたのは明治30(1897)年。
 
 門の側面にいる唐獅子--からじし--や獏--ばく--、通路に面した麒麟--きりん--や虎--とら--など82の彫刻が施されている。裏面の虎のうち右から2頭目の体の模様が違う。縞--しま--ではなく丸、つまりヒョウであるが、江戸時代、ヒョウは虎の雌--めす--と思われていた。

 

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