2010/05/07〜2010/05/09
講中の皆様と静岡・愛知方面のお寺巡り <11/13>

 

 

 

 

 

 本堂での読経・太鼓叩きの御指南を終え、お茶とお菓子を戴き、そろそろ退散となりますけど、お上人が豊田佐吉翁のお墓も案内されるとの事。
 菩提寺は名古屋市内に移されましても、豊田家累代のお墓は未だこのお寺に存在しますとの事。

 あの歴史的人物のお墓が眼に出来ますとは、これまた大変嬉しい事でありました(^.-)☆

 お上人に従い墓地にと移動。
 うん、うん、確かに存在しまして実に感激のGONsanでありました。
 決して大きなお墓ではありませんけど、「豊田佐吉」のお名前が実に偉大(^_^)v

 お亡くなりになられましてからは、ここに静かに眠っておられるのかと思いますと、実に感慨深い気もしてしまいます。
 WEB上で「豊田佐吉翁」を検索してみますと、仲々興味深い記述が…

 ■G型自動織機の発明は、豊田佐吉ではなかった

 ◆これまでの“通説”では、自動織機は発明王といわれた豊田佐吉が、自動車はトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)創業者である息子の、豊田喜一郎が手掛けたといわれていました。ところが、和田先生が書かれた『豊田喜一郎伝』では、この“通説”が覆され、佐吉が開発したといわれてきた、当時としては画期的な「G型自動織機(無停止杼換式豊田自動織機)」が実は喜一郎によって開発されたことが明らかにされていますね。

 ◆和田一夫(東京大学大学院経済学研究科教授)

 G型自動織機の製造・販売権(特許権)を、当時、世界最大の繊維機械メーカーだったイギリスのプラット社に譲渡したときの契約書、いわゆる「豊田・プラット協定」を見るために、イギリスに行きました。その契約書には、はっきりと豊田喜一郎と書いてありました。

 調べてみると特許明細書にも豊田喜一郎と書いてある。資料の中で、喜一郎自身が「G型自動織機は自分(喜一郎)としてはかなり力を入れてやった」とか、「みんなは(G型自動織機の開発は)親父(佐吉)だ親父だと言うけど、親父の言うやつでは動かなかった」と言っている。
 もちろん、G型自動織機の開発はチームでやっているので、あまり喜一郎だけを誉めすぎるのはどうかな、と思ってはいますが、G型自動織機の開発を喜一郎が手掛けていたことは間違いありません。


 GONsanなんぞは、小学生時代の教科書で「豊田佐吉」が開発と教えられましたけど、ふ〜ん、豊田喜一郎氏の開発でありましたか…

 それから、こんな記述も…

 ◇大正10年(1921)、豊田紡織に勤務してすぐ、喜一郎は豊田利三郎・愛子夫妻とともに、約半年間に及ぶ欧米旅行に出かける。
 この旅行の最大の目的は、当時イギリスにあった世界有数の繊維機械メーカー、プラット社での研修であった。日本では、喜一郎が工場の現場へ入ることを労働者は快く思わなかった。というのも、経営者の息子が現場のことを詳しく知れば、労働条件などの強化策を進言されるかもしれないと思われたからだ。しかし、外国の工場ならば、そうした懸念はなかった。
 喜一郎はプラット社の工場の近くに下宿し、紡績機械の製造現場を2週間以上にわたり研修し、工場レイアウトから、機械の製造工程などを細かく記録した。


 …と、こんな経緯もあります喜一郎氏ですから、G型自動織機の開発を豊田喜一郎氏が手掛けましたのも、決して不思議でもありませんネ(^-^)
 まぁそのような事はさて置きまして、あの世界的な著名人であります“豊田佐吉翁”のお墓を面前に出来まして、言葉では言い表せませんほど大感激のGONsanなのでありました(^-^)//"

 

 

 

 お上人のお見送りを受け妙立寺を後にしますと、昼食地でもあります豊川稲荷にと向かいます。
 妙立寺で長居をしましたせいか、時間の方は少々遅れ気味。
 予定より30分少々遅れての昼食タイムとなりました(^.-)☆

 食事後は豊川稲荷に参拝です。
 ここも6〜7年前になりますでしょうか…一度訪れました事はありますけど、その際と全く同一ルートで参拝となりました(^-^)

 ■豊川稲荷

  本殿 所在地 愛知県豊川市豊川町1
  山号 円福山(えんぷくざん) 宗派 曹洞宗
  本尊 千手観音 創建年 嘉吉元年(1441年)
  開基 東海義易 正式名 円福山 豊川閣 妙厳寺


 正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)、詳しくは円福山 豊川閣 妙厳寺(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院であり、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られる。本尊は千手観音。「稲荷」は鎮守として祀られる荼枳尼天(だきにてん)のこと。

 日本三大稲荷の1つとされる。ただし三大稲荷の定義には諸説あるが、豊川稲荷では他の2箇所を伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社としている。
 北海道、東京都、神奈川県、大阪府、福岡県に別院を持つほか、豊川高等学校を運営。また、修行道場として僧堂を設置している。

 豊川市は当寺院の門前町である。


 ■稲荷信仰

 前述のとおり、豊川稲荷の「稲荷」とは荼枳尼天のことである。当寺では「だ枳尼真天」と表記する(「だ」は口偏に「託」の旁)。荼枳尼天はインドの古代民間信仰に由来する女神であるが、日本では狐信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至った。

 鎌倉時代の禅僧寒巌義尹(豊川稲荷では法祖として尊崇)が入宋し、文永4年(1267年)、日本へ船で帰国の途上、荼枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、この神を護法神として尊崇するようになった。後に寒巌の6代目の法孫にあたる東海義易が妙厳寺を創建するに際し、寒巌自作の荼枳尼天像を鎮守として祀ったという。
 豊川稲荷で配布している御影を見ると、荼枳尼天は白狐の背に乗り、稲束をかついだ女神である。

 その後、開基の今川義元、織田信長や豊臣秀吉、九鬼嘉隆、徳川家康などからの帰依を受けたほか、江戸時代になると、大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受け、更には商売繁盛の神として庶民からも信仰されるようになった。また、皇族においては有栖川家等も帰依し、「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるようになった。

 稲荷神社としては京都の伏見稲荷大社を総本山としているが、豊川稲荷は神社ではなく寺であり、上述したように、信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるものの、稲荷神そのものではなく、荼枳尼天である。
 また、俗説であるが、平八狐を祀っているともいわれている。


 …と、こんな豊川稲荷でありました。
 とにかく日本三大稲荷の1つとされますだけに、さすがに敷地は大変広いものでありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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