講中の皆様と静岡・愛知方面のお寺巡り <10/13> |
本日最初の訪問寺、今回の旅での5ヶ寺目は、静岡県磐田市の「玄妙寺」でありました(^.-)☆
■玄妙寺
玄妙寺(げんみょうじ)は、静岡県磐田市見付町2440-1にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は本立山。日什門流八別格本山のひとつ(他の別格本山は会津妙法寺、会津妙國寺、品川本光寺、品川天妙國寺、飯田本興寺、吉美妙立寺、京都寂光寺)。
◆沿革
永徳 3年(1383年)− 日什上洛の折、当地に小庵を結ぶ。
元中 2年(1385年)− 日什小庵を玄妙寺として開創する。
日什得道の寺と称し、転法輪の寺妙満寺、涅槃の寺妙法寺と共に什門三本山と称される。
什門の名刹として、その後、戦前に至るまで顕本法華宗本山であった。
同宗は政府の意向により1941年の日蓮宗、本門宗と合同した。
戦後旧守派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が分離したものの、改革派は日蓮宗に残り玄妙寺は什門四本山(妙國寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)の一つとなる。
なお中間派は単立として現在に至る(品川本光寺等)。
日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「日蓮宗什師会」を組織している。
毎年11月12日〜13日の御命講(お会式)は有名。
現住は56世渡邊日易貫首(横浜市本長寺より晋山)。什師法縁。
…と、こんな由緒寺であります。
それだけに、現在では小規模ながら、本堂内は仲々格調高い雰囲気を醸しておりました(^-^)//"
磐田市の玄妙寺の参拝を終えますと、次は湖西市の妙立寺への訪問です。
挿入の画像は、その移動で浜名湖を通過時に車窓から撮りましたものなんです(^.-)☆
この鳥居…一見、宮島の大鳥居に似ているのですけど、もぅ随分前になりますねぇ〜
清水市に暮らします友人から、『浜名湖の鳥居は“鳥居”ではなくて「浜名湖観光タワー」と言うんだよ…』と聞いた事がありました。
車窓からこの鳥居に眼を向けておりましたら、ふと、この友人の言葉が蘇ってしまいましたよ(^-^)
で、せっかくですから、WEB上で検索です(^-^)
すると、うん、うん、あるんですねぇ〜この“鳥居”の話題が(^_^)v
こんな記載がありました(^.-)☆
「浜名湖の鳥居」は確かに鳥居形をしていますが、あれは鳥居ではありません。
正式名称を「浜名湖観光タワー」と言います(柱にそう書かれています)。確かに弁天島には弁天神社がありますが、そこの鳥居でもありません。
もともと、「浜名湖に弁財天伝説があるんだし、浜名湖に鳥居を造ろうよ」と町の商工会が口にして、当時の舞阪町に観光振興のための補助金を申請したときに、「鳥居とはっきり銘打つと、政教分離の建前上、補助金を出せない」と言われて、観光タワーの名目で建造したものだと記憶しています。
…との事。何となく微笑ましいお話しですネ(^-^)
それにしましても、こんな鳥居を眼にしますと、安芸の宮島が思い浮かんでしまいます(^-^)//"
磐田・玄妙寺とお別れし浜名湖を通過。そしてヤッて来ましたのが、今回のお寺参りの6ヶ寺目・今回の最後のお寺・湖西市の妙立寺でありました(^.-)☆
■妙立寺(湖西市) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
妙立寺(みょうりゅうじ)は、静岡県湖西市吉美2745番地にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は延兼山。日什門流八別格本山のひとつ(他の別格本山は会津妙法寺、会津妙國寺、品川本光寺、品川天妙國寺、飯田本興寺、見附玄妙寺、京都寂光寺)。
◆沿革
至徳3年(1386年)−佐原常慶と内藤金平が日什(1314年 - 1392年)を古見の地に招き開山。
永享6年(1434年)−川尻に移転。
永禄10年(1567年)−現在地に移転。
什門の名刹として、その後、戦前に至るまで顕本法華宗本山であった。
同宗は政府の意向により1941年の日蓮宗、本門宗と合同した。戦後旧守派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が分離したものの、改革派は日蓮宗に残り妙立寺は什門四本山(妙立寺、妙國寺、玄妙寺、本興寺)の一つとなる。なお中間派は単立として現在に至る(品川本光寺等)。
日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「日蓮宗什師会」を組織している。
塔頭として常住院、養仙院がある。
現住は45世吉塚日浄貫首(塔頭常住院より晋山)。什師法縁。
至徳三年(1386)、日什上人によって草創された日蓮宗の名刹である。開基旦那は土地の郷士佐原常慶、内藤金平であったという。
この両氏は代々この地に住み続け、その子孫は現代にいたるまで連綿と続いている。さりながら、その間何事もなかったわけではない。戦国時代の昔、一族の浮沈にかかわる岐路に立たされたことがあった。今川につくか、徳川につくか、この選択の如何によってはその後の両氏は絶えていたかもしれないのである。
こうした選択の岐路に立たされ、一族滅亡の悲劇を演じた国人、土豪も数多くいたことを忘れてはならない。
さてその戦国時代、遠江と三河は今川氏の版図に含まれていた。ところが永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元が敗死してからはその勢力が急速に衰えはじめた。三河では徳川家康が独立して永禄十年には統一を成し遂げ、遠江への進出を窺うほどにまでなっていた。
今川義元の後を継いだ氏真は徳川勢の来攻に備えて妙立寺の境内を接収し、兵を留めて城砦としたのである。これが境目城と呼ばれるもので、現在の寺域はその際に移されたものである。
永禄十一年十二月、家康の別働部隊である酒井忠次勢が湖西に進出して境目城を一日で落とし、ここ妙立寺に本陣を置いた。事前に徳川への旗色を鮮明にしていた佐原、内藤、松野の郷士らも馳せ参じ、次なる目標である宇津山城攻略の道案内を申し出た。
記録には松野喜楽が、「直道之案内仕、被遂御勝利候」(ただちに道案内つかまつり、御勝利をとげられそうろう)とある。
戦後、今川氏もそうであったが、徳川氏もこの寺を祈願寺として崇め、七十六石余の寺領を寄進している。
…と、こんな由緒あります妙立寺。
ご住職も仲々味のありますお方で、法話と実技は強烈に印象に残ってしまいましたよ(^.-)☆
太鼓の叩き方までご指導頂きましたけど、この続きは明日また綴る事に致します(^-^)//"
この妙立寺は、かっては、世界のトヨタ自動車の豊田家の菩提寺であった事でも有名のようですネ(^.-)☆
現在でも豊田佐吉翁のお墓は存在。
現在のお上人が、もぅ随分昔に、豊田家の皆様もご多忙で、なかなか湖西市の妙立寺まで訪れます時間も取れないだろう…との想いで、名古屋市内のお寺に菩提寺を移されるよう進言。で、菩提寺は移されましたようです。
それ以降、トヨタ自動車は世界的企業にと飛躍。
今となっては遅いけれど、自ら菩提寺を移されるよう進言しました事に対して、多いに悔やんでいる…と、面白可笑しく話されましたお上人。
冗談ぽく笑いながらお話しして頂きましたけど、内心、本音でしたのかも分かりませんねぇ(^_^)v
本堂内には、大正6年に豊田佐吉翁が寄進されました「五千円」の目録。
豊田章一郎氏(トヨタ現社長のお父上)が寄進された物の目録。
それに、佐吉翁のお父さんが寄進されました目録もありましたネ(^_^)v
こぅしたご説明に加えて、太鼓の叩き方もご指導頂きまして、仲々有意義な時間を過ごす事が出来ました。
また一つ、GONsanの脳裏に深く刻まれましたお寺が増えてしまいましたよ(^.-)☆
それにしましても、当時の金五千円の価値は、現在に換算しましてどのくらいの額となりますのでしょうねぇ〜
2億とも3億とも言われていますようにお聴きしましたけど…
この寄付金を有効活用しておりましたら、大変立派なお寺として維持出来ましたのに…
勿体なくて使用できませんで、基金としてズッと保有。
今では「五千円」と言われましても…
使用することなく寄付金「五千円」を、ただひたすらズッと守って来られましたお上人が偉いのか…
お寺全体の維持管理のために、有難く「五千円」を使用する事もありませんでしたお上人が偉くありませんのかも…
さぁ、どぅなんでしょうねぇ(^-^)//"
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