2010年9月-12月 秋の景観 <4/8>
 2010年10月31日
 先週10/20〜10/22の3日間は、終日、商工会議所内で聴講でした(^.-)☆


 聴講3日目…夕方までミッチリの3日間の講習も、いよいよ最終日(^.-)☆
 何となく嬉しい気持ちが湧いてきますけど、最終日のこの日の午後には理解度テストが実施されますから、さいごの最後まで真面目に聴講しなくては(^-^)
 最終日と言う安堵感からか昼前頃に眠気に襲われてしまいましたけど、“午後はテストだから!!”と自分自身に言い聞かせ、必死で眠気を抑えるGONsanでありました。

 そして、いよいよ午後。
 スグにテスト開始かと思いましたら、今暫く講義がありまして、それからおもむろにテスト。
 1時間後には各自自己採点し、提出となりました。

 GONsanは辛うじて合格点となりましたけど、危ない、アブない(^-^;
 数名ばかり100点の方もおられましたようですネ(^_^)v

 ヤッと無罪放免…解放で、嬉しさのあまり久し振りに福山城址公園周辺を散策して帰る事に致しました。
 まずは県立歴史博物館前から散策開始となりました(^.-)☆
 “ふくやま美術館”方向にと歩行ですけど、懐かしいですねぇ〜

 以前と変わりません同じ景観が眼に入りますけど、実に懐かしい気持ちを抱いてしまいます。
 この辺りには亡きGON子を連れて、嫁さんの三人でよく散策しておりましたから実に懐かしさが蘇ってしまいます。

 何度も撮りましたこの景観ですけど、また何枚か撮ってしまいましたねぇ〜
 平日の夕方近くですから、こぅしてノンビリと散策していますのはGONsanくらい(^-^)
 今から護国神社まで足を伸ばし、その後、福山城に上がってみましょうか(^-^)//"

 

 

 

 

 

 護国神社を散策しますのも久し振り。
 こんな平日の夕方近くに出かけますのは、GONsanくらい(^-^)どなたもおられませんでしたけど…

 ■備後護国神社

 明治元年、福山藩主・阿部正桓が、石見益田の役と函館戦争での戦死者の霊を祀るために、旧深津郡吉津村に招魂社を創立したのに始まる。明治26年に福山公園(現在の福山城)の本丸人質櫓跡に遷座し、明治34年に官祭福山招魂社に改称した。昭和14年(1939年)に内務大臣の指定を受けて福山護國神社と改称した。

 昭和15年(1940年)の紀元2600年を機に、芦田川河畔に新たに広大な境内と運動場を有する神社として建立されることになり、第二次世界大戦(太平洋戦争)の最中も工事が続けられていたが、完成目前の昭和20年(1945年)8月8日の福山大空襲によって焼失した。この敷地は現在、福山市体育館として使われている。

 第二次世界大戦中後の一時期は「備後神社」を名乗っていた。また福山城本丸にあった元の福山招魂社に合祀されていた。昭和29年(1954年)に、社殿を阿部神社の本殿を改装したうえで合祀することが決定し、昭和31年(1956年)に復興し、それに合わせて、福山藩主の阿部氏が建立した阿部神社は境内社として残っている。現在の「護国の英霊」以外の祭神は、このとき合祀されたものである。翌昭和32年(1957年)に備後護国神社に改称した。

 なお、阿部神社の時代には参道は南側にあったが、焼失した備後護国神社を移す際に参道石段を西側に移すとともに拝殿神門が建立されている。そのため、西側から参拝するのが正式であるが、南側からも参拝するのは可能である。また旧阿部神社の門も残されている。


 …と、こんな護国神社なのであります。

 石段の左側には「拓魂碑」が設置してありましたけど、この昭和48年建立の碑銘は時の総理大臣「田中角栄」sanの書でありましたが、う〜ん、仲々立派な書でありました。
 角栄san、実にイィ文字を書かれますね(^_^)v
 暫し立ち止まって見つめてしまいましたネ(^-^)//"

 

   

 

 

 

 

 神社参拝後には旧阿部神社側に階段を下りますGONsan。
 こちらには「宮本武蔵腰掛石」が存在しますから、これまた久し振りに拝見です(^.-)☆

 何故、ここに「宮本武蔵腰掛石」が存在しますのでしょうねぇ〜
 この説明は、WEBから拾ってきました方が手っ取り早いですネ(^.-)☆ チョッと失礼して捜して来る事に致します。

 うん、うん、早速見つけて来ましたけど、こんな記載がありました(^_^)v

 ■宮本武蔵と福山

 --- 武蔵瞑想石 ---

 この神社の境内にはNHK大河ドラマ「武蔵」の中でも紹介された宮本武蔵が座ったとされる「腰掛石」が安置されている。
 武蔵は巌流島の決闘ののち、大坂の役、慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年)において、俗説では豊臣方として参戦したとされているが、文献では徳川方である水野勝成の陣において嫡子の水野勝重付として名前が記されている。

 そんな武蔵と水野家との関係を思い起こさせるのが腰掛石で伝承によれば寛永年間(1624年〜1629年)に武蔵が福山を訪問したとき勝成の従兄弟で水野家二番家老である中山将監の屋敷で饗宴が催され庭園で腰を掛けた石がこれであるという。

 そして水野家断絶後に入封した阿部氏の時代にも家老下宮三郎右衛門の屋敷に引き続きあったが、福山藩廃藩に際して当時の阿部神社に奉納されたといわれる。武蔵が実際にこの石に腰掛けたかは明らかでないが歴史的ロマンがある伝承といえるだろう。


 …と、こんな記載が(^-^)

 この「武蔵瞑想石」を画像に納めまして、チョッとGONsanも失礼しまして腰掛けさせて頂きました(^.-)☆
 こんな時期ですからお尻が冷たい感じでしたけど、あの剣豪・有名人であります“宮本武蔵”samaと、多少知り(尻)合いになれましたかも\(^o^)/
 結構、嬉しい気持ちでありました(^-^)

 あの宮本武蔵がこの石に座ったのかと思いますと、実に感慨深いものでありました。
 当時は、この腰掛け石は、今ではキャッスルホテルが存在しますあの地の上にありましたようですネ。
 でも、この「武蔵瞑想石」の存在を、福山市民の皆様でもご存知ない方が結構おられますのですよ。

 まぁイィですけどネ(^-^)//"

 

   

 

   

 

 

 「宮本武蔵腰掛石」からお別れし、石段を下り福山武道館前で立ち止まりのGONsanでした。
 そして、せっかく訪れたのだから…と、武道館入口に立ち寄りし1枚パチリ(^.-)☆

 ■福山武道館

 福山城公園内、備後護国神社の裏手にある武道館。鉄筋3階建て。2階が柔道場、3階が剣道場になっている。館内にはシャワー設備もあり。福山城公園庭球場の受付も行っている。

 利用時間 平日13:00-21:00 日・祝日9:00-17:00
 休館日 月曜(祝日の場合は翌日)
 利用料(1日) 中学生まで50円 高校生70円 一般100円 シャワー100円
 駐車場は建物から道路を挟んだ向かいに20台ほど(利用者無料)


 …と、こんな武道館でありまして入口玄関には「渋谷昇」翁の像が(^.-)☆
 でも、何でここに?!

 ■渋谷昇(澁谷 昇)

 生誕 1904年(明治37年)9月23日
 現広島県福山市芦田町
 死没 1994年(平成6年)

 渋谷 昇(澁谷昇)、しぶや のぼる、1904年(明治37年)〜1994年(平成6年)は、広島県福山市出身の実業家、元福山市市議会議員。福山通運、ベッセルを創業し、しぶや美術館、福山通運渋谷長寿健康財団、財団法人渋谷育英会を創設した。

 昭和50年の年収は土地売却益を中心に34億円の個人収入で全国2番の年収であった。またこの時点で土地資産だけでも約150億円を所有したとされる。


 …と、こんな方でありまして、福山市民の皆様にはこのお名前を知らない方はおられませんかも(^.-)☆
 ですが、渋谷昇翁と武道館とはどんな関係にありましたのでしょうねぇ〜

 まぁそのような事は置いときまして、この後は福山城にと向かいますGONsanでありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 武道館を後にしますと福山城公園に上り、ふくやま美術館を見下ろしながらノンビリと散策です。が、紅葉にはまだ少し早いようでしたネ(^.-)☆
 周辺の木々はどれも皆、紅葉どころか青々としていまして、見頃は今月末頃になりますのでしょうか…
 福山城公園の紅葉も仲々キレイなのですけどネ(^_^)v

 阿部正弘公の銅像を通過時に、また数枚パチリ。
 この場所を通ります度にカメラを向けておりますけど、もぅ何枚撮りましたことか(^-^)

 ■出生

 文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の5男として江戸西の丸屋敷で生まれた。

 文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の阿部正寧が第6代藩主を継ぐと、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った。しかし、正寧が病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘を養子にして家督を譲って隠居したため、正弘は第7代藩主に就任することになった。

 天保8年(1837年)に正弘は福山(広島県福山市)へのお国入りを行った(正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである)。

 天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に任じられ、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺(台東区谷中)の破却などを行なっている。さらに大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が家斉没後に寺社奉行となった阿部の時代に露見すると、阿部は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになったといわれる…


 …と、こんな阿部正弘公。

 幕末のこの時期ですから、何だかんだと超多忙な日々を過ごしておられましたのでしょうねぇ〜老中在位のまま肝臓癌かなにかでお亡くなりになってしまいましたけど…
 とにかく次から次に難問続出で、お亡くなりになられますまでの日々は、自身の体調管理に眼を向けるヒマもない激務が続きましたのでしょうねぇ〜

 まぁそのような事はさて置きまして、書物を片手に阿部正弘公の銅像なのであります(^.-)☆
 もっと天守閣が臨めますイィ場所に設置してあげましたら宜しいのでしょうけど、こんな寂しい場所に置かれまして(^-^)

 …と、ここまで綴って来ましたけど今夜はヤケに眠いGONsanなんであります。
 と言う訳で、この辺でお休みなさいです(^-^)/~~~

 

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