2009/05/08〜05/10
講中の皆様と千葉県内のお寺巡り <3/15>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■2009年05月27日
 5/8(夜)〜5/10(夜)は、千葉県方面へのお寺詣りでありました(^.-)☆E

 本土寺の拝観を終えましてからは、松戸から市川へと南下し2ヶ寺目の「真間山 弘法寺」へと向かいます。
 これまた日程表通りA.M.10:00少し前には弘法寺近くにと到着です(^.-)☆

 お寺の駐車場には大型バスは進入できませんから、国府台公園駐車場で下車。
 ここからテクテク歩きとなりました。

 国府台公園駐車場には弘法寺の修行僧がお一人出迎えでありました。
 すぐ近くには千葉商科大学が存在し、この千葉商大の敷地に沿いましてグルッと大廻り(^-^)
 駐車場から弘法寺に向かいますには、千葉商大の構内を縦断しますとスグに行けますのですけど、お寺の参拝にそんな楽をしてはなりません。
 修行僧の方の後方を、皆さんゾロゾロ。

 それにしましても、実に大廻り。
 仕方ありませんネ…楽な参拝ですとお寺詣りの御利益も失せてしまいますから(^.-)☆

 とにかく大廻りしましてヤッと到着。
 このお寺もまた由緒ありますのでしょうけど、建物自体は実に近代的でありました。明治21年の火災で焼失してしまいましたようですねぇ〜惜しいことです。
 その後、明治23年に再建され現在に至っていますようですけど、それにしましても実に新しい建物でありました。
 それ以降に、またまた立て替えられましたのでしょうねぇ〜

 お寺の方の説明がありました際には、GONsanは別な場所で写真を撮っていましたから耳を傾けてはおりませんでしたから…詳細は不明です(^-^;


 ■弘法寺縁起

 --- 市川市教育委員会 ---

 ここ真間山、弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代、天平九年(737)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。
 それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。

 その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。

 その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。

 当山は元亨三年(1323)に千葉胤貞公(ちばたねさだこう)より寺領の寄進を受け、天正十九年(1591)に徳川家康公より御朱印状を賜り、元禄八年(1695)には水戸黄門公が来詣された折、茶室を賞(め)でて「遍覧亭(へんらんてい)」と称された。

 明治二十一年(1888)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、現在の諸堂は明治二十三年(1890)に再建されたものである。


 …と、こんな“真間山 弘法寺”のようですネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

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