2009/11/01-12/21
GONsanの絵日記から秋の話題を拾ってみました(^.-)☆ <2/9>
 ■2009年11月10日
 一昨日の県知事投票日…投票に出かける際眼にしました秋の一コマです(^.-)☆

 一昨日の日曜日、広島県知事選の投票に出かけます際に眼にしました秋の一コマ。
 我が家近くの用水路に一羽のカモsan。

 水面から出ました石ころに上手に乗りまして、しきりにバタバタと羽根を閉じたり広げたり(^-^)
 何しているのだろぅ?…と暫し見つめておりましたが、きっと水に濡れました身体を乾かしていましたのかも分かりませんねぇ(^.-)☆

 それにしましてもジッと見つめていますと、カモsanの身体は仲々キレイ(^_^)v
 一部だけ左右対称にブルーの羽根。
 これが日差しに映えて実にキレイ。

 ここで暫しの休憩後、今から何処に向かって行きますのでしょうねぇ〜
 仲間の所に戻って行きますのかも分かりません。
 が、こぅして単独行動していますのは、良き伴侶となります相手捜しの最中なのかも…
 まぁイィのですけど(^-^)

 小学校体育館での投票を終えての帰路には、大きく口を開けましたザクロが眼に入ってしまいました。
 それなりに沢山実を付けているのですけど、獲られる事もなく弾けておりました。
 我が家の畑にもザクロが存在しまして同様の状態ですけど…
 時間が許せば獲りますのですけど、結構多忙な日々を送っていますから仲々…

 とにかく、秋真っ只中ですネ。
 山間部に出かけますと、さぞ紅葉がキレイなのでしょうけどネ(^-^)//"

   

 

 

 ■2009年11月08日
 広島県知事選・出口調査のお姉さん…「40代の方が未だ…」と言っておられましたネ(^.-)☆

 今日・平成21年11月8日(日)は、広島県知事選挙でありました(^.-)☆
 で、私は嫁さんとA.M.11:00に、投票所にといざ出発となりました。

 もぅこんな時間ですから、大半の方々はテキパキと投票を済ませておられますのでしょうねぇ〜投票所であります小学校体育館にと向かっておられます方々のお姿はパラパラ程度(^-^)
 それも、私達夫婦のような年配者ばかり。
 若者のお姿は見掛けませんでしたネ(^-^)

 体育館に入ろうとしましたら、中国新聞社の出口調査のお姉さんがお一人で立っておられます。
 それとなく様子を伺いますと、何となく手持ち無沙汰状態。
 さて、どの年代の方の出口調査が未済なんでしょうか…気が向きましたら投票後にお尋ねしてみたいと思います(^.-)☆

 受付後、投票用紙を貰い、暫し思案。
 毎回そぅなんですけど、県知事選挙と言いますと仲々スムーズに候補者名が書けません(^-^;
 どなたに投票してイィものやら…

 そぅ言えば、つぃ先日、知人から「意中の方がいなければ、○○sanを…」と言われておりましたのを想い出しヤッとこさ記入し投票です。
 投票箱にと投入しチラッと立会人様の方に眼を向けますと、町内会連合会長san・民生委員sanのお姿が…
 会釈もせずに(心の中では軽く会釈はしておきましたが…)サッサと体育館の外にと退散となりました(^-^)

 そして、次は出口調査のお姉さんに取材です(^.-)☆
 「後、どなたの調査が済んでいないの?」には『40代の方が…』とのお言葉でありました。

 なんでも、今回の調査対象者は30名程度とか。
 と言う事は、各年代の方々に4名当たりの計算となりますネ。
 で、40代が未済とは…

 そぅですねぇ〜40代と言いますと働き盛り・遊び盛りの年代なのでしょうから、分からないことも(^_^)v
 この方達が終わりますと、このお姉さんも退散となるのでしょうけど、この調子ではまだまだ時間を要しますかも…
 まぁ適当に調査しておられましたら、早く済みますかも。
 でも、そぅもいきませんよねぇ〜

 仲々ベッピンのお姉さんでありましたから、お顔も撮ってあげれば良かったのでしょうけど、何年か前に中国新聞sanから苦言を呈されました事もありますから、今回は残念ながら美しい足と可愛いぃスニーカー部分を掲載です(^.-)☆

 早く40代の方に遭遇されサッサと退散されますよう祈っておりますが、さぁどぅなんでしょうねぇ(^-^)//"

 

   

   

 ■2009年11月16日
 もぅ晩秋だと言いますのに、つぃ先日こんな雲が…

 つぃ先日…と言いますより一昨日の土曜日の夕方、P.M.5:20頃でしたでしょうか…
 ワン公にせがまれ竹ヶ端運動公園に散歩に出かけます際、南方の空に眼を向けますとこんな雲が(^.-)☆

 もぅ晩秋だと言いますのに、つぃつぃカメラを向けてしまいます。
 この日は随分温かい一日で、こんな雲が出ますのも不思議ではないようにも感じます。

 でも、もぅ秋も終わりだと言いますのに…

  

 ■2009年11月14日
 ふ〜ん、芦田川大橋が青色にライトアップですか(^.-)☆

 いつもでしたら、夕暮れ間もなく白色というかオレンジ色に足元近くがライトアップされ、時間の経過と共に緑色にライトアップされます芦田川大橋。
 それが昨夜でしたか…いつもと違い青色にライトアップされておりましたから、“んっ?!”でありました(^.-)☆

 そぅ言えば今朝の中国新聞にこんな記事の掲載が…


 ■芦田川大橋、青色の輝き

 --- 2009/11/14 中国新聞 ---

 福山市水呑町と箕島町を結ぶ芦田川大橋が13日、青色にライトアップされた。14日の世界糖尿病デーのシンボルカラー。15日まで。

 4灯の照明装置の電球を緑から青色に交換し、午後5時から5時間点灯。いつもは緑色がかった橋が青く浮かび上がっている。

 糖尿病予防を呼び掛ける市では初の試み。14日は福山城の城壁もライトアップ。JR福山駅では無料の血糖値測定イベントもある。


 …と、こんな記事でありました。
 ふん、ふん、「世界糖尿病デー」と言う日がありますのですねぇ〜

 で、さっそく、夕闇迫りました夕方からワンchanと散歩。
 そして、帰路、芦田川河川敷に廻り芦田川大橋に眼を向けますと、ライトアップはされておりましたけど通常の色(^-^;
 時間的にまだ早かったのでしょうけど、そぅは言いましても時計を見ますとP.M.5:55でありました(^-^)
 確かP.M.5:00から…と新聞には記載がありましたのですけど…

 それはともかく我が家に帰りまして一息入れ、芦田川大橋の主塔に再度眼を向けますと、う〜ん、なんと青色にライトアップ。
 はてさて、どぅしたものか…と暫し思案。
 結局、また今度は独りで出かけて来る事になりました。

 芦田川河川敷に降り護岸を芦田川大橋方向に歩いておりますと、お一人…そしてまたお一人…と主塔にカメラを向けておられます方が(^.-)☆
 私だけかと思っておりましたら、チャンと新聞記事に眼を通しておられます方が(^.-)☆
 私はサッサと数枚撮りまして退散となりましたけど、この方々はまだおられましたネ。
 
 いつも見慣れたカラーと異なりますと、何となく新鮮でイィものではあります。
 福山市内でライトアップされます橋はここのみですから、我が町のシンボル的存在でイィものであります(^-^)//"

   

  

 ■2009年11月17日
 今朝の出勤…通常10〜15分の所要時間が1時間10分も要してしまいましたよ(^-^;

 昨夜は、深夜近くから降雨が始まりまして、結局朝までズッと降り続けておりました。
 昨日は亡き母の四九日法要・納骨の儀を執り行いましたから、降雨でなくて良かったなぁ〜と改めて感じてしまいます(^.-)☆
 
 挿入の画像は、昨日の朝方、我が家周辺の秋の景観を撮りましたものなんです。
 さほど冷たいとも感じませんでしたけど、気温は多少低かったようですネ。
 
 気温と言いますと、今朝は終日冷たさを感じてしまいましたネ。
 昨夜からの降雨は出社して間もなく止みましたようです(^-^)
 
 ところで、今朝の出勤…通常10〜15分の所要時間が1時間10分も要してしまいましたよ(^-^;
 GONsanの職場は引野町に存在しますから、出勤ルートは、我が家を出ますとまず芦田川大橋を渡り、ほぼ直線道路を入江大橋へと向かいます。
 入江大橋を渡りますと国道2号線に出まして右折。
 右折して500b程度で職場到着です。
 
 が、今朝ばかりはこの単純な通勤ルートが大渋滞でありました。
 芦田川大橋を渡り、この芦田川大橋と入江大橋との中間辺りから大渋滞。
 少し進んでは停止、また進んでは停止…と、こんな状態を何度繰り返した事でしょう…
 
 ラジオに耳を傾けておりますと、「引野町から大門方向にかけて通行止め…このため上下線とも入江大橋周辺は3km程度の渋滞です…」との道路渋滞情報です。
 この通行止め区間が具体的に何処なのかは知らされませんでしたけど、これで大渋滞の要因は充分理解。
 遅れて出社する旨の連絡を職場に入れ、スッカリ諦めましたGONsanです(^-^)
 
 周辺の車に眼を向けますと、運転中だと言いますのに皆さん平気で携帯で会話中。
 勿論、GONsanもそぅでしたけど…
 
 まぁとにかく、久々の朝の出勤時の大渋滞でありました(^-^)/"

   

   

   

 

 

 ■2009年11月18日
 四九日法要を翌日に控えた11/15(日)は、ご先祖様への墓参りとなりました(^.-)☆

 薄曇りで気温も低く少々肌寒い11/15(日)には、亡き母の四九日法要を翌日に控え慌ただしい中にもノンビリとご先祖様への墓参りとなりました。
 嫁さん・ゴンchanとヒマを見つけては墓参りをしておりましたけど、この半年間は随分回数も減りましたネ…
 
 お寺・墓地からの我が町内の眺望は、相変わらずGONsanの心を和らげてくれますようです。
 見慣れた景観ではありますけど、また数枚パチリ。
 ゴンchanを連れて来ておりましたら、“おっさん、また写真を撮るの…”とでも言いたそうに足元でGONsanを見上げてくれているのでしょうけど…
 
 そぅ言えば、ここ最近、墓参りにはゴンchanは留守番です。
 いつもでしたら、“こらぁ、連れて行けぇ!!”とばかりに吠えまくりですけど、最近は昼寝の時間がずれましたのかも(^-^)
 墓参りに出かけます際には、大概静かに眠っていますから…
 そして、墓参りから戻ってきますと、“何で起こしてくれなかった!!”と吠えまくり(^-^)
 
 GONsanとしましては墓参りに同行させました方が、散歩も兼ねまして一度に済みますから楽なのですけど…
 
 ところで、本年もいよいよ後1ヶ月と12日を残すのみとなりました。
 1年が過ぎ去りますのは本当に速いもののようです(^-^)//"

 

 

   

 ■2009年11月19日
 「箱田良助」sanと「榎本武揚」san…お二人とも凄い人でしたのでしょうねぇ(^.-)☆@

 「箱田良助」sanと「榎本武揚」san…お二人とも凄い人でしたのでしょうねぇ(^.-)☆
 
 今朝の中国新聞sanのこんな記事に眼が止まってしまいました(^.-)☆
 「箱田良助」sanと「榎本武揚」san…お二人とも凄い人でしたのでしょうねぇ〜
 
 ■福山城特別展、1万人を突破
 
 --- 2009/11/19 中国新聞 ---
 
 福山市神辺町出身で、江戸時代に伊能忠敬の一番弟子として日本初の全国地図作成に携わった箱田良助と、その次男である榎本武揚の業績を紹介する特別展が同市丸之内の福山城博物館で開かれている。18日に入館者が1万人を突破した。
 
 1万人目となったのは、娘2人と訪れた福山市横尾町の主婦原美智子さん(35)。羽田皓市長から記念品を受け取り、「地元出身者が伊能図作成にかかわっていたとは知らなかった。当時の地図がとても細かいことに驚いた」と話していた。
 
 特別展は、中国地方の伊能図の複製や江戸時代の測量道具、箱田良助が家族に送った手紙など約150点を並べる。幕臣だった榎本武揚が実際に着用した軍服も飾っている。23日まで。
 
 …と、こんな記事でありましたけど、何年か前にGONsanも「箱田良助」sanの生誕の地(神辺町)を訪れました事がありました。
 
 画像を捜してみましたら、うん、うん、確かにありましたネ(^.-)☆
 挿入の画像が、その際に撮りましたものなんです(^.-)☆
 
 GONsanも時間が許しましたら、福山城博物館に出かけてみたいものですネ(^-^)//"

 

 ■2009年11月19日
 「箱田良助」sanと「榎本武揚」san…お二人とも凄い人でしたのでしょうねぇ(^.-)☆A

 ■細川良助生家
 
 細川家は、幕府領の箱田村の庄屋を代々勤めた家です。細川家の墓地にある「妙法真照院殿清孝日保大居士参百五拾逐忌供養塔」によれば、祖先の細川掃部助清孝は1565年に没していますので、このころ箱田村に定住したのではないかと思われます。
 
 細川良助は1790年に箱田村庄屋細川園右衛門直友を父に、母卜部氏の次男として産まれました。
 1986年、伊能忠敬(1745〜1818)が第5次測量で山陽道側の海岸線・島や山陰地方の海岸線と隠岐を測量しますが、このとき、細川家と伊能忠敬が初めて会ったのではないかと思われます。
 翌年、細川良助は兄と江戸に上り伊能忠敬の内弟子となりました。これ以降、良助は細川姓を使わず箱田姓を使うようになりました。
 
 1809年、伊能忠敬の第7次測量に参加することになり「一札之事」という誓約書を父と地理学者であり伊能忠敬の弟子でもある谷東平(1774〜1824 井原市大江町出身)と連盟で提出し、伊能忠敬の規則を守らず役に立たなければその場に捨て置いてもよいと言い切っています。この西下の11月27日に伊能忠敬は神辺本陣に宿泊し、菅茶山が訪問しています。二人の邂逅はこれが初めてでしたが、伊能忠敬は早くから菅茶山との出会いを求めていました。
 
 1811年閏2月12日、伊能忠敬は九州からの帰途、箱田村に宿泊し、「庄屋園右衛門、箱田親ノ家」と日記に記し、郷里・佐原(千葉県)への土産である畳表購入を園右衛門に依頼しています。1812年、伊能忠敬の第8次測量にも参加し、伊能忠敬は再び神辺で菅茶山と交わり、銅販板の万国図を菅茶山に贈っています。1814年。菅茶山は福山藩主の命令で江戸に行きますが、江戸滞在中に箱田良助や伊能忠敬に深く交わっています。
 
 1815年は伊能忠敬の第9次測量ですが、伊能忠敬は高齢で参加せず、箱田良助は中心的に働きました。1816年、内弟子筆頭となった箱田良助は第10次測量任されました。この年から「大日本沿海與地全図」の作成に取り掛かりますが、6年かかり1821年幕府に提出されました。ここでも中心人物の一人でした。
 
 1822年、箱田良助は、御徒士榎本株を50両でで買い入籍し、五人扶持五十五俵となりました。翌年、妻榎本富は長女を残して病没しました。榎本良助は林氏を妻に迎え、翌年幕府天文方に出仕します。1833年西の丸御徒目付、1833年御勝手掛、1840年右大将付本丸勤務、1844年御勘定となり旗本になりました。1846年小普請組になります。
 
 1860年8月6日に没しますが、親戚に送った書簡で、「倅勇之助は講武所へ出没…次男釜次郎は御軍艦操練教授方出没」と記しています。この次男が函館の五稜郭にたてこもり、後に明治政府の大臣を歴任した榎本武揚(1836〜1908)です。
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