講中の皆様と静岡方面のお寺巡り <2/10> |
■2008年05月26日
町内講中の皆様と静岡方面のお寺参りC
最初の訪問寺であります「富士宮本門寺」までは“富士ミルクランド”からですと、距離にしましてもぅ10`もないでしょうか…
この“富士宮本門寺”〜“富士ミルクランド”間には「白糸の瀧」もありまして、当初の予定表には白糸の瀧で昼食となっておりましたけど、当日貰いました予定表では消えておりましたネ(^.-)☆
何故なんでしょう…
時間的に昼食時に合わせますと調整が難しかったのかも分かりませんねぇ〜
それはさて置きまして、タビックスジャパンsanから頂いた資料には、こんな説明が綴られてありました。
■富士山 本門寺
霊峰富士を望む景勝の地に永仁6年(1298)、6老僧の一人日興上人によって建立された巨刹。
身延山久遠寺は、宗祖の滅後、輪番によって運営されていたが、次第に日興上人が常時給仕するようになっていた。ところが、久遠寺の外護者・波木井実長と同上人の間に不和を生じ、宗祖の第7回忌を終えた正応元年(1288)12月5日、ついに身延を離山。
同4年に重須の領主・石川孫三郎能忠の邸で説法したおり、この地の風光を賞し、この地こそ日蓮聖人の究極の願業たる本門戒壇建立根源の霊地にふさわしいと考えられ、諸堂を建立して永仁6年(1298)2月15日、開堂式を挙行した。
以来、重須談所を建設して門下の育成につとめた。
住所:静岡県富士宮市北山4965
交通:JR身延線富士宮駅下車→バス白糸行・猪之頭行・富士吉田行→本門寺入口下車→徒歩5分
◆南部実長公
南部三郎光行公の三男とも六男とも伝えられますが、父である南部光行公から波木井郷を与えられ、以来波木井実長と称し、文永6年(1269)鎌倉にて日蓮聖人の高弟、日興上人の教化を受けて入信したと伝えられ、同年若しくは翌年には日蓮信者となって弘安5年(1282)出家入道して法名を日円と号した。(日円上人)
…と、こんな、日蓮宗の皆様にとりましては由緒有りますお寺でありまして、仲々立派でありました。
もぅ5〜6年ばかり前の事になりますか…
出張業務で甲府市からJR身延線で下って来まして富士宮駅で下車。ここでの出張業務を終え1時間少々時間がありましたから、富士宮本門寺に出かけたいなぁ〜と思いながらも、中途半端な時間ですから結局参拝は断念。
富士市に向かいます列車の中で、やっぱり無理しても出かければ良かったかなぁ〜と悔やまれた想いがあるのですけど…
あれから早や数年後…まさか、またこぅして富士宮市を再訪出来ますとは思いもよりませんでしたけど、ヤッと『富士宮本門寺』に参拝出来ました(^_^)v
…と言う訳で、少々感慨深い気持ちも抱きましたGONsanなんでありました(^-^)//"
■富士宮本門寺
サイト:http://park16.wakwak.com/~honmonji/
正式名称:富士山法華本門寺根源
沿革:当山は、山号を富士山と称し、今を距る700年前日蓮聖人六上足の第三白蓮阿闍梨日興上人の開創した寺で、元本門宗の祖山であったが現在、日蓮宗の霊跡大本山である。
高祖日蓮大聖人の滅後、日興上人は、祖師の遺命に従い輪次守塔のかたわら、身延山を本拠として甲斐駿河の伝道をすすめていられたが、祖師七回忌の正応元年(1288)12月、身延を下られて、母方の駿河川合で年を越され、翌2年3月、南条時光の屈請により上野に移り、大石寺大坊の工を起こし翌3年10月には、大石ヶ原に大石寺を草創。
さらに上人は、重須丸山の風光を愛し同4年9月に法座を移し重須石川能忠、上野南条時光の両地頭の施入と上野小泉法華講衆の協力を得て永仁元年(1293)より起工せる重須本門寺道場は、上人53歳に永仁6年2月15日本堂・御影堂・垂迹堂の三堂なり、額を掲げて「法華本門寺根源」と称された。
「根源」二字に意義は、誠に深く勅命戒壇建立促進への願業は、ここに発祥奠定をみたのである。
36年上人は、内に重須談所を興して後進の育成に努め外には、自らあるいは、弟子をして天奏国諌し四方に伝道せしめ、元弘3年(1333)2月7日安祥として当山において遷化せらる。時に御年88歳なり。
当山第一の御霊宝は、御影堂に安置して御座います、六老僧日法上人の彫刻の生御影尊像で六老僧日朗上人が、当山に登られたときこの、御影を拝し「我が師は、いずれにおわすかと思いしに当寺におわせしか」と御影の肩に抱きついて泣かれしと伝えられております。
当山開基の砌日興上人が、常緑の杉苗を題目の7字にあやかり7本植え本門寺根源を祝福されたもので台風落雷により折れたり枯死したもの4本現在3本を残すのみ(県指定天然記念物)他多数建造物、霊宝当あり。
(中)昼食は“レストラン志ほ川”でした(^.-)☆ (右)岩本実相寺
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