2007年 ふれあい文化祭 史跡巡り <2/4>
 ■下の森神社

 家事屋川をさらに50m下ると下の森神社があり、松尾神社・明見神社・平野神社の三社が合祀されている。

 ◆松尾神社

 松尾神社の祭神は大山昨神(オオヤマクイノカミ)と言い、国語辞典によると滋賀県大津市坂本の日吉大社の祭神と書いてあるが、水呑の松尾神社の祭神は京都市右京区の松尾大社の分祀ではないかと思われる。松尾大社の祭神は大山昨神である。

 ◆明見神社

 明見神社の祭神は天御主命(アメノミナカシノミコト)で天地開闢(テンチカイビャク)の神といい、祭神としては冊子などに出てくる最初の神である。

 ◆平野神社

 祭神は京都市北区の平野神社の分祀ではないかと思われる。京都の平野神社は官幣大社(現在は官幣大社は廃止されている)で古代神祇官から幣帛をささげた神社である。祭神は百済系の今木神(イマギガミ)比盗_(ヒメガミ)久度神(クドノカミ)古開神(フルアキガミ)の四神で、794年(延暦13年)桓武天皇が奈良から現在の京都に写したのち平氏の氏神とされたとある。(国語中辞典より)


 下の森には鳥居の横には樹齢400年と言われる椋の大木がある。また、百度石があるが、この百度石の石柱は病気平癒等を祈願するためにその石柱から神社に百回往復して願い事を成就するために造られたものである。

 

 

 

  

(右)椋の実

   

 

 ■大覚堂と龍王碑

 鍛冶屋川をさらに下り、県道を横断して60mの所に大覚堂がある。大覚さんとして親しまれている。1927〜1364時代の代表的な僧侶で、妙顕寺第二世大覚大僧正妙実上人のことである。

 名は名実といって最初は真言宗の僧侶であった。後に日像上人の教えを受けて日蓮宗に改宗し、日蓮宗の布教に努めた人であり、近くは備前備中備後にも布教し、西国布教の先人となっている。

 大覚はいろいろな功績から天皇より大覚の号と大僧正の地位を与えられたと言われている。近年講中の人々からの信仰篤く現在地に大覚堂が建立されたとの事である。常夜灯には文政四年辛巳正月吉日とあり、参拝者が後を絶たない状況にある。

 

 ■八大龍王

 大覚堂の後に1914年(大正3年)7月3日八大龍王碑が建立されている。
 仏陀の法華経説法の座に列した龍王で、難陀(ナンダ)・跋難陀(バツナンダ)・沙伽羅(シャカラ)・和修吉(ワシュキチ)・徳叉伽(トクシャカ)・阿那波達多(アナバダッタ)・摩耶斯(マナシ)・優鉢羅(ウハツラ)の総称で八大龍神と言われる。(国語中辞典より引用)

  

  

(右)小学校旧校舎:水呑小学校の校舎を移設した建物である。当時の瓦の紋が、そのまま残っている。

 ■水呑第四公園と汐止め石

 以前の水呑川は海から続く入江であり、幅も広く地元ではミヨと呼んでいた。山之神の内海屋商店の前まで海水が入り、潮の干満によって水位は大きく変動していた。この第四公園も入江を埋め立てた土地である。

 現在は宅地となっている三新田の排水は、一本松と唐樋の樋門から海へ放流されていた。満潮の時は樋門を閉じて海水の侵入を防ぎ、干潮で海面が低くなった時開放して海へ排水するシステムである。一本松は現在の水上スポーツセンターの北側であり、唐樋は野球場横の排水ポンプ場となっている。

 その樋門に使われていた汐止めの石が公園に置かれている。

 一本松の樋門の傍らには干拓地の守護として塩崎神社が鎮座していた。現在は、ひまわり薬局の東側に移設してある。

   

  

   

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