2007年 ふれあい文化祭 史跡巡り <1/4> |
2007/10/14(日)
昨年は勤務の都合で参加出来ませんでしたけど、何にも予定がありませんと大概欠かさず参加しています「ふれあい文化祭“史跡巡り”」。今回は1年振りに参加出来ました(^.-)☆
もぅ随分前に、町内会の回覧でこんな案内が廻っておりました。
■歴史民俗探訪 -- 第9号 --
◆ふれあい文化祭への誘い
熱い夏が過ぎると秋風と共に紅葉の季節がやって来ます。
さて、私たちは水呑民俗資料保存会の一員として、水呑の歴史を繙いて見ようと努力はしているものの、古き時代を解明する事がなかなか出来かねるのに苦慮しております。
日本は神話の国であるが、さてその元祖はいつどこから来たのか、人類が住み着いたのは約一万年前とも言われているが、水呑にはいつ頃から人が住み着いたのであろうか。水呑の伝統的な営みを後世に引き継ぎ、よりよい社会を作り上げたいものです。
◇今年度の文化祭は=向丘中学校。
◇歴史の展示をするものは=民具を移動させる事が困難な為、写真展示のみとなる予定です。
◇史跡巡り=中学校から鍛冶屋方面の古道と史跡。史跡巡りの時間は、10:00〜12:00までの予定です。
…と、こんなご案内に誘われての参加となりました。
水呑に暮らしてはおりましても、意外に町内の事を知りませんのは、決してGONsanばかりでもないものと思います。
さて、今回はどんな新しい発見に遭遇しますでしょうか…
あまり詳しい説明は出来ませんけど、今日の史跡巡りで廻りました場所を画像でご案内させて頂きたいと思います(^-^)/
■古道と史跡巡り
古道とは何千年何百年の昔から先人達が往還した道であり、またその古道のほとりに残してくれた史跡がある。海岸を通り、山の中を通った道、今では獣道となったような所もあるであろうし、場所によっては住居を造り一つの集落となったところもある。
近代になって海岸近くで生活していた人達は広い土地を求めて山奥へ行き、平地や段々になっているところを切り開いて生活をするようになり、現代社会へと発展して今現在の社会生活の営みとなったものと思われる。
今回は水呑町で海岸近くであったと思われるような史跡を訪ねてみたい。
(右)いよいよ史跡巡りのスタートです。向丘中学校校門を出ますと、まず山分坂(さんぷんざか)を鍛冶屋方向に下ります(^.-)☆
■山分坂(さんぷんざか)
山分坂(さんぷんざか)は現在の向丘中学校の正門を頂上とする峠の名である。今から70年前まで、この道が福山から鞆に通じる唯一の道路であった。水呑小学校付近から緩やかな上り坂となり、この山分坂を越えると佐須良池の西を通って、水呑と田尻の境界である塞の峠(さいのたお)に至り、田尻の海岸へと下って行く。
この塞の峠を山分坂と呼ぶこともあった。鞆街道の難所というイメージのためであろう。塞とは要所とか境の意味があって塞の峠には塞の宮がある。
山分坂の名について、先人達の資料を見てもこれといって決め手となるような意味はないが、いずれにしても急斜な坂道であったことに間違いのないことである。
1891年(明治24年)に県道へ編入されて大改修が行われ、頂上を2丈5尺(約7b余り)掘り下げて緩やかになった。現在の新県道が1930年代に開通した後は村道となり、1960年代に向丘宅地を造成するとき現在のように改修された。
↑↓ 法界碑「日朝さん」
■日朝さん
向丘中学校正門から北へ200mほど下った所の西側に法界碑がある。これが日蓮宗総本山第十一世日朝上人の碑であると言われ、当時眼の悪くなった人が拝んだら良くなり、日朝さんとして親しまれるようになったとの事である。
建立は1868年(慶応4年7月となっている)。
■法華一乗屋敷跡
日朝さんから北へ150m歩き、右に折れて鍛冶屋川沿いに200mほど下ると、川の南側に法華一乗屋敷跡がある。現在では秋田泰一氏宅地内に鍛冶の神を祀った証鍛冶の神を祀った小社があり、その中に「天目一筒神」と書いた木札があり、ふいご石もその小社の脇にある。鍛冶屋の町名の由来であると言われている。
法華一乗とは三原一乗といい弟と共に刀工鍛冶で、芦田郡(あしだごおり)助国一門で修行していた。京都妙顕寺の日像(日像菩薩)に法華経の教義を受けて仏門に入り行者として出家した。そして、1314年(正和3年)に京都へ旅立っている。後に兄弟は水呑妙顕寺の第三世一乗妙性・第四世一乗本性上人として妙顕寺の継嗣となっている。
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