2023/09/24(日) 佐木島(さぎしま)一周ウォーク <4/7>

 そぅしていますと、備後と安芸の国境≠ワでヤッて来ました。
 この国境について、ガイドさんから説明を受けていますと、先ほど通過して行きました御神輿が戻って来ましたネ(^.-)☆
 GONsan達が歩いておりまして追い越されました辺りに住居が一軒ありまして、そこまでが佐木地区≠ネんでしょうけど、本来ならそこでUターンとなりますようです。が、道幅の関係でUターン出来ず、少し先まで走行しUターン(^-^)
 で、引き返して来ている…と、ガイドさんのお話しでした(^.-)☆
 国境には、こんな説明板が設置されてありました。


 ◆備後と安芸の国境の説明文

 旧きは
 ここは 備後と安芸の国境

 -- 二分されたさぎしま --
 延宝5年(1677)佐木島の北半分と小佐木島は三原城主、浅野氏分に、南半分の向田野浦村は広島本藩の所管となり、備後国と安芸国となった。須波村属佐木島と向田野浦村では、国境の争いが度々起きた。

 -- 山境の争い --
 延宝年間、須波・向田両村の山境の件につき喧嘩続出、数度の出入りに及び、十年に近い紛争となった。天和3年(1683)、佐木の住民が幸神社を500メートル佐木寄りの現在地に遷座したと伝えている。貞享元年(1684)の出入りは熾烈を極め両村の在方役人は悉く御役御免となった。
 このことの解決のために郡代より三名が調停役に命じられ和議が図られ貞享2年(1685)、向田・佐木の山境の紛争が決着した。

 -- 海藻の争い --
 文政12年(1829)、海藻の争いがあった。海上の境界は陸上の村境の延長線上と設定されているが、境界線の延長方向が問題となり紛争が起き、争いは長年続いた。
 明治22年(1889)、市町村制が施行され向田野浦村と須波村属佐木は合併、一つの行政区域、鷺浦村とになった。

 --- 2015年12月 郷土史家:山下博巳 制作:元気さぎしま協議会 ---

 永年続きました紛争も和議により決着。その際に交わされた覚書≠フ内容が、説明板の下に記載されておりますけど、何と綴られていますのか、GONsanにはよく分かりません(^-^;
 事細かな取り決めがありましたのでしょうネ(^-^)/
 この国境から少し進んだ路傍には、第五北川丸遭難慰霊地蔵≠ェ…そして、この慰霊地蔵の左側の道を上がって進みますと第五北川丸遭難者慰霊碑≠ェありますのでしょうけど、残念ながらさぎしま一周ウォーク≠フコースに入っておりませんから…


 ◆第五北川丸遭難慰霊地蔵。
 第五北川丸(総トン数39トン)は、昭和32年(1957)4月17日瀬戸田港から尾道港へ帰途の佐木島西海岸沖で座礁、転覆し113人の方が亡くなった第五北川丸沈没事故。この犠牲者を追悼する地蔵さん。


 それではまた、第五北川丸沈の海難事故≠WEB上で確認してみます事に。

 ◆第五北川丸沈没事故

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 第五北川丸沈没事故(だいごきたがわまるちんぼつじこ)は、1957年に発生した海難事故である。
 舵を甲板員見習に任せたために操船を誤り、暗礁に座礁・転覆した事により発生した事故。定員の3倍を超える乗客を乗せたうえ、救命胴衣も定員の半分しか用意しておらず、死者・行方不明113名を出す惨事となった。

 ・事故の概要

 1957年4月12日は穏やかな天気であり、「西の日光」といわれる生口島(当時:広島県豊田郡瀬戸田町、現在:広島県尾道市瀬戸田町)・耕三寺には大勢の団体参拝客や花見客が訪れていた。
 午後0時半に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船であった第5北川丸(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名)が出航した。
 この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)という旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていた。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船であり、乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習(事故により死亡)に任せていた。生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置された)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまった。
 付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事になった。
 海難審判(1959年3月26日・言渡)では、操船を未熟かつ資格のない甲板員見習にまかせた船長の職務上の過失に加え、老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど運航会社による運航管理が不適当であったとして責任があるとされた。

 ・その後の経過

 事故後、現場近くの地元住民らが中心となり、現場近くで毎年4月に慰霊祭を開催してきたが、慰霊会を執り行っていた地元佐木島の住民及び遺族が高齢化してきたため、節目となる五十回忌にあたる2006年4月8日の法要を最後に遺族に対して参列呼びかけをしなくなった。しかし、地元住民により慰霊祭は毎年続けられており、事故から60年目を迎えた2017年4月12日の慰霊祭には約20人が集まった。

 ◆第五北川丸遭難者慰霊碑(だいごきたがわまるそうなんしゃいれいひ)

 -- 事故現場を臨む丘の上にある慰霊碑 --
 昭和32年4月、佐木島西海岸沖での座礁により113人の方が亡くなった、第五北川丸沈没事故。この犠牲者を追悼するため、事故現場を臨む丘の上に慰霊碑が建立されています。地元では、有志によって参道の整備や慰霊碑周辺の樹木の剪定や清掃が行なわれ、事故のあった毎年4月12日に慰霊祭を行なっています。参道には慰霊祭に満開となる桜が植樹されています。


 …と、こんな海難事故でしたようであります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 また、ウォーキングが続きます。
 備後と安芸の国境≠ゥらノンビリと歩いておりますと、左手に塔の峰千本桜入口≠フ案内板が…WEB上で検索してみますと、サクラの時期には、こんな感じで大変綺麗な景観ですネ(^_^)v


 ◆塔の峰千本桜

 --- さぎしまウォーキングガイド ---

 小高い山の一面に、桜の木が1,000本以上植えられており、満開の時期には桜色のトンネルができあがります。地域の運動により植樹が続けられ、「全国育樹活動コンクール」で林野庁長官賞を授与されました。
 春には小高い山の一面に、千本を超える桜が咲き誇ります。以前はみかんの畑でした。「美しい自然のあるふるさとを守ろう」との地域の運動により、平成4年(1995年)から数年かけて植樹が続けられました。地域全員で取り組んだ活動に対して、「全国育樹活動コンクール」で林野庁長官賞を授与されました。その後、植え続けられて現在では1,200本以上になっています。
 毎年、4月初旬「向田さくら祭」が行われ、桜の木の下で海を眺めながら楽しいひとときを過ごします。最近では木も大きくなり、観光会社のツアーの花見客が訪れるようになっています。

 ◆塔の峰千本桜(とうのみねせんぼんざくら)

 --- 三原観光navi https://www.mihara-kankou.com/sightseeing/1035 ---

 塔の峰は、向田港から歩いていける小高い山。その山の一面に桜の木が植えられています。桜が満開の時期には、塔の峰を1周する道に桜色のトンネルができあがります。景色の美しい頂上にも簡単に歩いて登れ、桜と海の景色が一緒に楽しめる場所でのんびりと。この塔の峰千本桜は、地元を美しくしたいという地域の活動により、平成4年から植樹が続けられ、「全国育樹活動コンクール」で林野庁長官賞を授与されました。


 …と、こんな塔の峰千本桜≠フようであります(^_^)v
 そして、少し先の右手には、何やら建物が…入口壁面には「三菱重工労働組合・三原製作所支部 寄贈 平成26年3月31日 三菱重工労働組合 三原支部」の銘板が(^.-)☆
 ふ〜ん、三菱重工労組から寄贈された建物で、今では「サギ・セミナー・センター」として利用されていますようであります。


 ◆サギ・セミナー・センター

 三原市サギ・セミナー・センターは、瀬戸内海の離島「佐木島」にある宿泊研修施設です。青少年教育を目的とした施設ですが、一般の方もご利用いただけます。
 佐木島観光やスポーツ合宿、各種研修にどうぞご利用ください。

 ◇サギ・セミナー・センターの利用について
 利用者のみなさんには、新型コロナウイルス感染症への対策として、次のことを守っていただきますようお願いします。

 【基本的注意事項】
 ・発熱や、軽度であっても咳・咽頭痛などの症状があるなど体調の悪い方は入館を控える。
 ・必ずマスクを着用する。
 ・入館時や利用中は、手指のアルコール消毒、こまめな手洗いをする。
 ・館の利用中は、人と人との間に十分な間隔(約2m)を確保する。
 ・会議室や宿泊室では、換気を心がける。
 ・ごみは、袋に入れて縛るなどして、各自で持ち帰る。
 ・食事の際は、会話を控え,短時間で済ませるよう心がける。
 ・食堂、浴室、ロビーなどの利用を、多人数にならないよう制限する場合がある。
 ・来館までの移動の際にも、できる限り密集・密接・密閉を避ける。


 サギ・セミナー・センター≠ゥら少し先には、『向田港(フェリー乗り場)』の案内表示が…ヤッと向田港に到着です。
 向田港の左手には、鷺浦コミュニティセンター≠フ建物が。向田港の駐車場には、「トライアスロン界の登竜門」の大きな表示が(^.-)☆


 ◆向田港

 --- http://sagishima.info/2021/05/ ---

 2021/05/01よりフェリー航路・高速艇時刻表が変わりました。
 ・2021年5月7日:お知らせ
 2021/5/1より、佐木島に着くフェリー航路が 須波港〜向田港〜沢港 に変更になりました。
 車での乗船時などフェリーご利用の際は、三原港ではなく須波港からになりますので、お間違いないようご注意ください。
 三原〜鷺港の高速船は引き続き運行していますが、時刻表が一部変更になっています。

 ◆鷺浦コミュニティセンター

 ・センターの目的
  鷺浦コミュニティセンターは、佐木島、小佐木島の総合的な振興発展を図るために、
 1.いろいろな集会や会議
 2.グループ・サークルによる自己啓発・生涯教育などの学習や生産研修活動
 3.生活改善,保健・福祉活動などの暮らしの向上に役立つ催し など、様々な目的にそって、多くの皆さんが集い、気軽に使える市域総合施設です。

 ◆トライアスロンさぎしま大会

 周囲約12kmの佐木島を舞台に行なわれる歴史ある大会です。スイムは向田港湾内を、バイクとランは多少のアップダウンが心地よい島内外周道路を走ります。
 島の人たちのおもてなしの心が、ふるさとに帰ったときのように、あたたかく感じられる大会です。
 毎年8月下旬の日曜日に開催しています。島の多くの人々がボランティアで参加し、鉄人と共に島が燃える一日です。水泳1.5km、自転車42km(島4周)、マラソン10km(島一周)


 ふん、ふん、佐木島に車で来ます時には、須波港〜向田港間のフェリーを利用しますようですネ。
 向田港桟橋横では、本日の佐木島一周ウォーク≠フ目的の一つで有ります『磨崖和霊石地蔵』を見学です。磨崖和霊石地蔵°゚くの道路脇には「広島県重要文化地蔵」を説明した石碑が…


 ◆広島県重要文化地蔵

 昭和50年4月8日指定
 所在地 三原市鷺浦町向田港

 磨崖和霊石地蔵には、地蔵の肩あたりまで潮に濡れる海中の花崗岩の巨岩は、幅4.7m、高さ2.7m、厚さ4.0mで、西の面に地蔵菩薩が刻まれている。
 像は高さ25cmの七弁蓮華座に座し、舟型光背の輪郭を約15cmの深さに彫りくぼめ、その中に結跏趺坐を肉厚に刻み出している。
 この像は、正安二年(1300)仏師念心の刻銘があり、一部に波浪による摩滅もみられるが、精密な刻跡をとどめている。
 坐高 95cm

 
-- 三原市教育委員会 --

 そして、「広島県重要文化地蔵」を説明した石碑に並んで、歌碑らしき碑も…
 『青柳へ 遠眼指しの 地蔵尊 匠』と刻まれておりますけど、ガイドさんの説明はありませんでしたネ…
 磨崖和霊石地蔵≠ノ関しては、WEB上に色んな記載がありますけど、その中から一つ抜粋です。


 ◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)

 --- http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=724 ---

 三原市佐木島向田野浦の波打際にある高さ約2.7メートル、幅約4.7メートルの巨岩に半肉彫(はんにくぼ)りされた地蔵菩薩坐像(ぼさつざぞう)である。右手に錫杖を持ち、左手に宝珠(ほうしゅ)をのせる。
 満潮時には、像の肩のあたりまで海中に没する。
 左右の花瓶(けびょう)に刻まれていた銘文(めいぶん)は、風雨にさらされて判読できなくなっているが、他の石碑に移刻されたものから、主旨を要約すると、東西南北各1町を未来にわたり殺生禁断(せっしょうきんだん)とした。
 造立は釈尊円寂(しゃくそんえんじゃく)2251年にあたる正安(しょうあん)2年(1300)に、散位平朝臣茂盛(しげもり)が大願主となり幹縁道俗(かんえんどうぞく)70余人を集めて行った。仏師は念心(ねんしん)である。
 近世に伊予宇和島(愛媛県)の和霊(われい)神社の信仰の影響を受けて、当像を和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったとされる。
 瀬戸内海の岬の地蔵の中では最も古く、地蔵信仰の海への広がりがうかがわれる。芸備地方の在銘石造物の中でも古い部分に属する。また美術的にみても、彫法は密で秀麗な姿の像である。以後内海各所で造られる地蔵像の原型といっても過言ではないと思われる。


 …と、こんな磨崖和霊石地蔵≠ナありますが、早速、見物させて頂きます(^-^)//"

 

 

 

 

 

 ガイドさんの説明もありましたけど、WEB上にも色んな方が「磨崖和霊石地蔵」に関して綴っておられますので、それに眼を通し知識を深めてみたいと思います。

 ◆広島県の文化財 - 磨崖和霊石地蔵

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-202030480.html ---

 ・【解説】
 波打際の花崗岩に彫刻された磨崖式半肉彫の像で、頭部のうしろに円光背(えんこうはい)を浮き彫りにし、衣を通肩(つうけん)に、胸に瓔珞(ようらく)をかけ、蓮台上に結跏(けっか)している。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠をのせている。像の左右には花瓶を浮き彫りにし刻銘があるが、潮と風雨にさらされて銘文は判読しにくくなっている。他の石碑に移刻された銘文によると、「于時正安二庚子年九月日大願主散位平朝臣茂盛幹縁道俗都合七〇余人仏師念心」とあり、造立の縁故を知りうる。なお、正安2年は西暦1300年に当たる。
 ※ 瓔珞(ようらく)…珠玉をつづった首飾り

 ◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)

 --- 満潮になると首まで浸かるお地蔵さん https://www.sora-michi-minato.jp/spot/213 ---

 ・700年前に建造!?
 磨崖和霊石地蔵は、佐木島向田港フェリー到着場のすぐ横の海中に鎮座しています。波打際の独立した巨岩の中央の蓮華座の上に舟形の輪郭を彫り沈め、その中に地蔵坐像が彫られています。
 頭部のうしろに円光背を浮き彫りにし、右手に錫杖を持ち,左手に宝珠をのせています。 またこの像の左右には、花瓶を浮き彫りにし、その周辺に願文が刻んであり、正安2年(1300)仏師念心の刻銘があります。
 ・佐木島は石仏の宝庫
 佐木島は島の至る所に石仏が祀られています。道路わき、山中の道端など、石仏の表情を辿っていくだけでも楽しいひと時です。

 ◆磨崖和霊石地蔵

 --- Sagishimaさぎしま http://sagishima.info/guidemap/guidemap-09/ ---

 鎌倉時代(1300年)に平茂遠が願主となり、仏師念心により造立され、県の重要文化財に指定されています。
 通称「和霊石地蔵さん」と呼ばれています。高さ2.7m幅4.7mの花崗岩に浮き彫りにされた座像は、満潮になると肩まで沈み、干潮になると全身が現れる全国でも類を見ないお地蔵さんです。
 そこに刻まれた文字は「東西南北各1町(約110m)において殺生禁断の地とし、また、お地蔵さんの大神通力をもって、人々があらゆる悪い境遇に落ちないようにお守りください」という文言が刻まれています。磨崖和霊石地蔵尊は、現実界のみならず冥界(めいかい)においても永遠に大悲をもって救済してくださる尊いお地蔵様です。
 毎年、7月の終わりの土曜日の潮がひいた夕方から法要がおこなわれ、お地蔵さんへお参りをしています。夜店なども出て、夏の夜の楽しい行事となっています。機会がありましたら、是非、お出かけください。

 ◆磨崖和霊石地蔵

 --- https://tabi-mag.jp/hm0435/ ---

 広島県三原市鷺浦町、波打際の花崗岩に彫刻された広島県の重要文化財に指定される地蔵尊が、磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)。石碑に移刻された銘文から正安2年(1300年)に刻まれた地蔵尊だということがわかります。干潮時には波打ち際から、満潮時には向田港から見学可能。

 ・向田港近くの岩に刻まれた地蔵菩薩坐像

 刻まれる石は、高さ2.5m、幅4.9m、厚さ3.7mで、半肉彫りで刻まれる地蔵尊坐像は、像高88cmで、広島県立歴史博物館にレプリカが展示されています。
 干満差の激しい瀬戸内海のため、満潮時には首まで海水に浸かるので、見学には潮の満ち引きに注意が必要。
 頭部のうしろに円光背(えんこうはい)があり、胸に瓔珞(ようらく=魔除けの装身具)を掛け、蓮台上に結跏(けっか=座禅の正しい姿勢)しています。
 右手に密教法具の錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ=災難を除き、濁水を清くする、霊験を表す宝の珠)をのせています。
 「于時正安二庚子年九月日大願主散位平朝臣茂盛幹縁道俗都合七〇余人仏師念心」と刻まれ、正安2年(1300年)、平茂盛が願主となり、仏師・念心により造立されたことがわかっています。
 さらに東西南北各1町(110m四方)では殺生を禁じることなどが刻まれています。
 仏師・念心は、米山寺・小早川家墓地の石造宝篋印塔(国の重要文化財)の制作でも知られる鎌倉時代の名仏師です。
 今も「和霊石地蔵さん」と親しまれ、7月下旬の土曜、干潮時に法要が執り行なわれています。
 ちなみに、和霊地蔵と呼ばれるようになったのは近世のことで、伊予・宇和島(愛媛県)に承応2年(1653年)創建の和霊神社の信仰の影響を受けて、和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったため。
 もともとは、鎌倉時代、法然の唱える浄土教の台頭に対抗するために、南都六宗(三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の六宗)が民衆救済の一環として地蔵信仰を積極的に取り入れ、西国に地蔵信仰が広がったことが背景にあります。

 ◆磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)

 --- ひろしま文化大百科 http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=724 ---

 三原市佐木島向田野浦の波打際にある高さ約2.7メートル、幅約4.7メートルの巨岩に半肉彫(はんにくぼ)りされた地蔵菩薩坐像(ぼさつざぞう)である。右手に錫杖を持ち、左手に宝珠(ほうしゅ)をのせる。
 満潮時には、像の肩のあたりまで海中に没する。
 左右の花瓶(けびょう)に刻まれていた銘文(めいぶん)は、風雨にさらされて判読できなくなっているが、他の石碑に移刻されたものから、主旨を要約すると、東西南北各1町を未来にわたり殺生禁断(せっしょうきんだん)とした。
 造立は釈尊円寂(しゃくそんえんじゃく)2251年にあたる正安(しょうあん)2年(1300)に、散位平朝臣茂盛(しげもり)が大願主となり幹縁道俗(かんえんどうぞく)70余人を集めて行った。仏師は念心(ねんしん)である。
 近世に伊予宇和島(愛媛県)の和霊(われい)神社の信仰の影響を受けて、当像を和霊石(割石)地蔵と呼ぶようになったとされる。
 瀬戸内海の岬の地蔵の中では最も古く、地蔵信仰の海への広がりがうかがわれる。芸備地方の在銘石造物の中でも古い部分に属する。また美術的にみても、彫法は密で秀麗な姿の像である。以後内海各所で造られる地蔵像の原型といっても過言ではないと思われる。

 ◆磨崖和霊石地蔵

 --- https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/nazo/nazo27.html ---
 --- 謎を秘めた仏たち 川尻祐治 ---

 磨崖仏は三原市鷺浦(さぎうら)町の佐木島(さぎしま)とよばれる周囲12kmの島の海岸部にあり、満ち潮ともなると、海中に沈んでしまうという特殊な環境下の石仏である。したがってその全容は干潮の時のみ拝見できる。
 この島には鷺港(須波-すなみ)と向田港(向田野浦-むこうたのうら)があるが、二つの港への船便は少なく、しかも港は島の北端と南端にあって、これを結ぶタクシーもないという。三原に行けば何とかなると、簡単に考えて来てしまったが、行賢像の所在確認に手間取ったことを思うと不安になった。善根寺の見学の帰り、三原のホテルに入る前、三原港のフェリー乗り場に立ち寄り、佐木島までの船便と和霊石地蔵の所在地、潮の満ち引きを確認した。
 切符売り場の女性に尋ねてわかったことは、明日の満潮は昼頃で、午前中は潮が引いているということ。佐木島の向田経由瀬戸田行きの一番船は、7時5分に出るということ。しかし幸せなことに、明日の日曜日は、島でトライアスロンの大会が開かれ、臨時便が多数出航するという。磨崖仏の所在はハッキリとしないが、これに乗船することにした。明日の朝食は抜き。

 翌日、港近くのホテルを6時半出発。港までは徒歩10分足らず、待合室の売店で弁当を買い朝食を済ませる。向田経由瀬戸田行きの船は定時に出発。そういえば、海に沈む仏は佐木島の隣り、因島にも巨岩に刻まれた「鼻の地蔵」とよばれる石仏がある。こちらは尾道から車でいける。高速艇の乗客は七、八人。フェリーよりはるかに早い。天気は今一すっきりとしない。
 三原港の桟橋が見えなくなったと思ったらもう向田港に到着。瀬戸内の波の穏やかな海、わずか15分足らずの乗船であった。驚いたことに、土地の人に聞いてもその所在が分からず、気をもんだ磨崖仏の刻まれた巨岩が、桟橋の直ぐ脇の砂浜に見えていた。案ずるより生むがやすしの諺を実感した。

 江戸時代、佐木島は安芸国豊田郡、広島藩領に属した。全島広島系花崗岩の島で、島名は神功(じんぐう)皇后が鷺の群れをみたことから起こったといわれている。和霊石地蔵のある向田野浦は、島の南部にあり、穏やかな入り江に面している。
 磨崖仏は割石地蔵磨崖仏ともよばれているが、近年は磨崖和霊石地蔵と書かれる。和霊石の意味は分からないが、石に大きな亀裂があることから、割れた石、割石の地蔵が変化したと思われる。
 海縁を走り島を一周する県道から砂浜に降りると、高さ約2.7m、幅約4.7m、奥行き約4mの花南岩の独立岩があって、海に向き、陸に背を向けて西面する地蔵菩薩の像が半肉彫とされている。波打ち際には乱石積みの石垣による、結界が設けられ、周囲が地蔵の清浄な浜であることを物語っている。
 像は高さ150cmの龕状に浅く彫り窪めた光背の中に、錫杖と宝珠を執り、高さ25cmの蓮華座に結跏趺坐している。像の前に各々二基の石造花立てと灯籠が置かれている。
 地蔵本体は95cm、膝張75cm、頭長27cm、面幅20cmあり、肩の辺りから、波の侵蝕により石質が変化し、下が黒ずんでいる。意思的な目、大きな耳、胸飾、衣文など細部に至るまで丁寧に刻み、作者が本格的な仏師であることを物語っている。像の左右には華瓶と蕾をつけた三茎の蓮華が、これも浅く彫りこんだ龕の中に、半肉彫りとされている。さらに像の右、華瓶の上を四角く浅く彫り窪め、「現在未来人天衆、吾今應懃付嘱汝、以大神通方便□、勿令堕落諸悪□」と四行にわたって発願の趣旨を陰刻している。

 さらにその脇に、大きく「釈圓寂二千二百五十一年、□時正安二年九月□日、大□主 □位平朝臣茂盛、幹縁道俗都合七十余人、佛師念心」(石仏 日本の美術 久野健 小学館)と陰刻している。
 しかしこれらは七百年もの間の風浪によって磨滅が進み、読むこと難しい。
 「…大□主□位平朝臣茂盛…佛師念心」の部分は、「大願主散位平朝臣茂平…佛心念心」(日本の石仏 山陰・山陽編 瀬戸内の石仏 岩道王宣)とも読まれており、正安二年(1300)に造像されたことが知られる。
 作者念心は、小早川茂平が創建した三原市米山寺、小早川家墓地の石造宝篋印塔(国重要文化財)の制作者としても知られ、この地方で活躍した石工の仏師と考えられる。江戸の頃になって活躍する尾道の石工との関わりはないと考えられる。

 発願者散位平朝臣茂盛は、沼田川東岸に古高山城を築き、三原地方に勢力を張った、沼田、竹原の両小早川氏の祖小早川茂平で、木像の発願者は茂平と考えるのが自然であろう。
 小早川氏は、頼朝の旗揚げの際に功労のあった、土肥実平の子遠平が、沼田荘の地頭職に任じられたことから、一族を挙げて当地に移り、小早川を名乗るようになった。沼田荘の地頭職は遠平から養子景平、そして景平の子茂平に受け継がれた。
 その茂平が海中に没する岩をなぜわざわざ選んで、地蔵菩薩の造像を発願したのか。あるいは念心が、潮が満引きし、制作日数にも相当の年月が必要と思われる最悪の制作環境の中で、これだけ大きな像の制作になぜ取組んだのか。当時の人々の宗教心を、深く掘下げなくては答えが出ないであろう。
 見学が終わった頃、桟橋にトライアスロンの選手を乗せた臨時便のフェリーが到着していた。これを逃すと次の便が何時来るのか分からない。午後のスケジュールが大幅に狂ってしまう。慌てて乗船すると、乗客は我々五人だけだった。


 …と、色んな方々が綴っておられまして、こんな磨崖和霊石地蔵≠ナあります(^-^)//"

 

 

 

 

 

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