2022/02/28(火) 福山市熊野町「一乗山城跡」散策 <2/4>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫く進んで行きましたけど、特に何にもありませんようですから、七面明神上がり口まで引き返しとなりました。
 石段を七面明神に上がって行きまして、社の右側に進みますと「一乗山城本丸登り口」で、社の左側には「←横井戸」の案内標識が…とりあえず「横井戸」に向かってみましょうか(^-^)
 斜面からずり落ちそうな山道を進んで行きますけど、結構荒れていますので横井戸行きは断念し、またまた引き返す事となりました。
 後日、WEB上で「横井戸」を調べてみますと、う〜ん、残念。GONsanが引き返しました地点のスグ先が、もぅ横井戸でしたようですネ。
 GONsanが撮りました画像をよくよく見てみますと、うん、うん、少し先に白い案内板が…辛抱して、もぅ少し先まで進みますと到着でしたようですねぇ(^-^;
 WEB上から、横井戸の画像を4枚ばかり無断拝借です(^-^)
 ところで、「七面明神」には、何が祀られていますのでしょうネ…またまた、WEB上で検索です。

 ◆七面天女

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。その本地は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高1,982mの七面山山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297年)9月19日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。
 七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があった。日蓮より二百年余りの昔、京都の公卿の姫が業病にかかった際、厳島明神の「甲斐の国 波木井郷の水上に七つ池の霊山あり。その水にて浄めれば平癒せん」というお告げを受けて癒やされた姫君説話の舞台でもある。
 縁日は毎月18日もしくは19日である。


 ふ〜ん、そぅなんですか…
 それでは、面明神の右側から「一乗山城本丸」に登ってみます事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本丸下の曲輪跡には展望所が設けられておりました。
 この展望所からは、熊野水源地脇の熊野〜鞆間を結びます山田街道が、よく見通せます。


 ◆備後 一乗山城

 --- 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/bingo/ichijyosan-jyo/ ---

 ・歴 史
 築城年代は定かではないが、文明年間(1469年?1487年)頃に渡辺越中守兼によって築かれたと云われる。 渡辺氏は渡辺綱を祖とする一族で、鎌倉時代末期に備後国山田荘に移り、始め下山田城、中山田城を居城としていたと考えられている。渡辺兼のときに毛利にしたがって功があり、山田三ヶ村を賜り一乗山城を築いたという。
 天文3年(1534年)大内・毛利軍が亀寿山城の宮親忠を攻めた時には渡辺兼もこれに従い、天文21年(1552年)の志川滝山城攻めでは渡辺房が毛利軍に加わっている。
 天正4年(1576年)足利義昭が毛利氏を頼って鞆に入ると、渡辺元と景父子が義昭の警固を務めた。
 関ヶ原合戦で毛利氏が防長二カ国に減封となると、渡辺景は浪人となったが、その子は福山藩主となった水野氏に仕えたという。

 ・説 明
 一乗山城は熊野ダム(水源地)の南に聳える標高190m程の山に築かれている。現在は主郭まで遊歩道が整備されている。
 一乗山城は山頂の主郭背後に櫓台を備え、南背後の尾根を五重堀切で遮断し、周囲に畝状竪堀群を設けた堅固な山城である。主郭の東西両下にある帯曲輪は何れも南端に分厚い土塁があり、主郭背後の側面に横矢を掛けることができる。
 主郭の櫓台周辺を含め小振りな石を用いた石積を所々見ることができるが、曲輪から北東山腹に降りる通路に大きめの石を用いた大石垣がある。この石垣は二段に分けて積み上げられており、天正年間(1573年〜1592年)頃の遺構であろうか。

 ◆一乗山城(広島県福山市熊野町上山田・黒木谷)

 --- 西国の山城 https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/07/blog-post_12.html ---

 --備後・渡辺氏--

 渡辺氏の出自は不明ながら、渡辺友綱が鎌倉末期にこの地域に入ったのが最初といわれ、その子・四郎兵衛尉持は、観応2年(正平6年:1351)、すなわち南北朝期の動乱のころ、石崎城(福山市駅家町大字中島:『城格放浪記』氏の「備後・石崎城」参照)で戦い、その子四郎兵衛尉究も、石成(現在の福山市上岩成・下岩成)で戦ったとされている。(芝山城(香川県高松市香西北町芝山)参照)
 一乗山城が築かれたのは、それから約100年後の文明年間である。4代目・兼(渡辺氏の名前は一字とするものが多い)は、天文3年(1534)、大内・毛利氏に属し、新市宮氏の亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)攻めに加わり、攻略後同城の監視役を務めた。
 天文21年、兼の子・出雲守房は父と同じく、毛利氏による宮氏の志川滝山城攻めに名を連ね、その子・源三高は永禄12年(1569)の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照)合戦に参加した。
 その後も渡辺氏は毛利氏に仕えたが、関ヶ原の戦いのあと、一乗山城は廃城、渡辺氏は浪人となったといわれている。
 ところで、一乗山城は戦国期を通じて一度も戦禍に遭わなかった珍しい山城である。
 また、現在一乗山城の麓には、上記渡辺氏の末裔とされる方が現在も住んでおられる。おそらく、江戸期ごろに先祖の供養をするために当地に戻ってきたと思われる。


 それでは、本丸跡に上がってみたいと思います(^-^)//"

 

 

 

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