2021/06/22(火) 矢掛町「下道氏墓」& 真備町「琴弾岩・まきび公園・箭田大塚古墳」散策 <1/10>

 

 ■2021年08月01日20:12
 6/22(火)、「三光寺」とお別れし、倉敷市の「まきび公園」へと向かいます事に(^.-)☆


 2ヶ月ばかり前の4/27(火)に、猿掛城跡から下山後、小田川を挟んで対面に存在します「吉備真備公園」を『まきび公園』と勘違いし訪れました。
 『まきび公園』には、もぅ10数年前に、総社市で開催の吉備路マラソンからの帰路に立ち寄り、イィ公園だなぁ〜と散策しました事がありました。で、スグ近くに来ましたから立ち寄りますと、何となく『まきび公園』と景観が異なりまして、公園内の館址亭(手打ちうどん店)で、「公園内の景観は、10数年前と様変わりですネ、昔は池がありましたが…」と、お尋ねしますと、「それは『まきび公園』ですよ。ここは『吉備真備公園』ですから…」との説明でありました。
 こんな経緯もありまして、「三光寺」とお別れ致しますと、10数年振りに『まきび公園』を訪れてみます事に(^.-)☆

 国道486号線を、井原市→矢掛→倉敷市方向に走行していますと、吉備真備公園の手前辺りに『吉備公史跡・下道氏公園』の標識が…
 で、せっかくですから、この標識下の国道486号線脇に駐車スペースがありましたので、歩いて出掛けてみます事に(^-^)
 国道486号線から少し北側に入りますと、「国指定重要文化財・下道氏の墓」の標識が…これに従い左方向に進みますと、これまたスグに「吉備公累代墓域」の石標と石灯籠が…そして、その後方に小さな祠が…
 『吉備公史跡・下道氏公園』と言うくらいですから、ここではなくて、もっと山側に進んで行かなければならないのでしょうから、今回は、訪れますのは断念。ここで引き返しです。
 WEB上で、「下道氏公園」を検索しますと、こんな記載が…


 ◆下道氏公園・下道氏の墓

 〒714-1211 中国地方 岡山県 南部 井笠地域 小田郡 矢掛町 東三成
 下道氏墓域…吉備真備公の祖母を火葬にした銅製骨蔵器が発見され、後に下道氏の墳墓であることが判明…じゃらん観光ガイド(https://www.jalan.net/kankou/spt_33461aj2200120309/?vos=afjlnpvczzzzx00000381&caadsess=12180_mmqjy7qx5q03kZZ&caadterm=3600)
 国指定重要文化財。吉備真備公(旧姓下道真備)の祖母の骨が見つかったことから、吉備公もここに埋葬されたものと推測されている。狭い道と長い石段を登った先が広場になっており、「右大臣眞吉備公の墓」と記された…井原鉄道 三谷駅から徒歩15分

 ◆下道氏墓域について
 元禄12(1699)年に東三成の丘陵地から、吉備真備公の祖母を火葬にした銅製骨蔵器が発見され、後に下道氏の墳墓であることが判明。その後、この墳墓及び付近から、納骨器、祭器、和同開珎などが発見された。


 …と、こんな記載と、「右大臣眞吉備公之墓」の墓標のこんな画像が。
 「下道氏公園・下道氏の墓」には、また後日、機会を見つけて訪れたいと思います(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 国道486号線脇の駐車スペースから正面に眼に入りますのが、4/27(火)に訪れました「猿掛城跡」です。
 それでは「まきび公園」に向かいますけど、その前にまたチョッと寄り道です。この近くに『琴弾岩』がありますので、訪れてみます事に(^.-)☆

 ◆琴弾岩(ことびきいわ)

 吉備真備公が晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、この岩の上で琴を弾かれたと伝えられています。
 毎年、中秋の名月の夜にこの岩に集い、真備公の故事にちなみ弾琴祭が開催され、岩上で琴、尺八を演奏しています。

 ◆琴弾岩【ことひきいわ】

 真備町の名前は、奈良時代の政治家・吉備真備に由来する。右大臣にまで登りつめた人物であるが、その出自はこの吉備地方出身の豪族であり、中央政界での出世は歴史上まさに唯一無二のものである。
 ところが、吉備真備の晩年は謎に包まれている。宝亀2年(771年)に右大臣の職を辞してからは完全に歴史の表舞台から消えてしまい、その4年後の死去の記録以外、所在すら全く不明である(墓と伝わる塚は奈良市内にある)。
 真備町を流れる小田川を臨む岸辺に、琴弾岩という名の巨石がある。この岩には、晩年故郷に戻った真備が、中秋の名月を眺めながらこの岩の上で琴を弾じたという伝説が残されている。そして、吉備真備の遺徳を偲ぶという目的で、昭和24年(1949年)から「弾琴祭」と称して、毎年中秋の名月の夜にこの岩の上で琴と尺八の演奏会が開かれている。

 ◆吉備真備

 695-775。吉備出身の政治家。遣唐留学生として唐へ赴き、多くの政治や文化の知識を習得。帰国後は聖武天皇の寵愛を受けて出世する。一時期大宰府や遣唐副使など、中央政界から脱落するも、政敵の藤原仲麻呂失脚後に復権。最終的に右大臣にまで登りつめる。

 ◆琴弾岩(ことひきいわ)とは

 真備町西端付近の小田川沿いにあり「琴弾岩(ことひきいわ)」と呼ばれています。この琴弾岩は「吉備真備」が大きく関係しています。
 右大臣となった「真備公」は世界で活躍後、政界を引退し下道郡で余生を過ごしていたと言われており、この巨石「琴弾岩(ことひきいわ)の上で晩年、琴を弾いていた」と伝えられています。
 現在も、毎年中秋の名月の日に「弾琴祭(だんきんさい)」と呼ばれるお祭りが行われています。この「弾琴祭」では、遠方の方も多く集まり、「琴弾岩」の上で琴と尺八の演奏が行われ、真備公の遺徳をしのんでさまざまな行事が行われています。


 …と、WEB上には「琴弾岩」に関しまして、こんな記載がありました。

 >ところが、吉備真備の晩年は謎に包まれている。
 >宝亀2年(771年)に右大臣の職を辞してからは完全に歴史の表舞台から消えてしまい、
 >その4年後の死去の記録以外、所在すら全く不明である(墓と伝わる塚は奈良市内にある)。

との事ですけど、右大臣まで登りつめ中央政界で活躍されました方の晩年が不明とは、不思議ではありますネ。何がありましたのでしょうねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 「琴弾岩」は、「下道氏公園」入口近くの橋(福頼橋)を渡り、対岸を川下方向(倉敷市方向)に走行しますと到着です。
 それなりに大きな岩で、上部がほぼ平らですから、晩年故郷に戻った真備が、中秋の名月を眺めながらこの岩の上で琴を弾じた様子は、何となく想像は出来ますネ(^.-)☆
 琴弾岩に上がり河岸を見下ろしますと、小舟が一艘駐まっておりました。ノンビリとした景観であります(^_^)v
 近くに案内板がありますので、眼を通してみますと、こんな記載が…

 ◆琴弾岩

 奈良時代に右大臣として中央政界で活躍した吉備真備公が、晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、小田川に臨むこの岩の上で琴を弾かれたと伝えられているところから琴弾岩と呼ばれている。
 昭和24年以来、町民は毎年中秋の名月の夜にこの岩に集い、真備公の故事にちなんで弾琴祭(ざんきんさい)を催し、岩上で琴・尺ハを演奏して公の遺徳をしのんでいる。

 --- 倉敷市教育委員会 ---


 そして、その隣りには「猿掛城跡」の案内板が…

 
◆猿掛城跡

 小田川の右岸にそびえる猿掛山(標高230m)に築かれていた中世の連郭式山城遺構である。山頂の本丸跡には六壇からなる郭が南北に連なり、石垣・土塁・井戸・掘切・出丸などの遺構とともに、備中有数の山城の威容をよくとどめている。
 山陽道の要衝に位置するこの城は、南北朝時代から室町時代にかけて備中で最も有力な国衆として活躍し、備中守護細川氏のもとで守護代をつとめた庄氏の居城であった。その後、天文22年(1553)頃から成羽城主三村氏の支配するところてなったが、天正3年(1575)に起こった備中兵乱で三村氏が滅ぶと、毛利元就の六男元清が在城した。同10年、羽柴秀吉による高松城攻めのときには、毛利勢の総大将毛利輝元が本陣を置いたこともある。その後、元清は茶臼山城(矢掛町東三成)を築いて移り、この城には重臣宍戸隆家を置いて守らせていたが、慶長5年(1600)関ヶ原の役後まもなく廃城となった。


 琴弾岩の下に小径がありますので降りてみました。
 小径から琴弾岩を眺めますと、こんな感じでありました。琴弾岩の下部には小さな石仏が(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →