2018年 某協会福山支部の皆様と「京都方面研修旅行」行きでした(^.-)☆ <1/11>

 ■2018年05月28日23:17
 5/12(土)〜5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆


 5/12(土)〜5/13(日)の2日間は、某協会福山支部san主催の「京都研修旅行」のGONsanも参加となりました(^.-)☆
 20名程度の参加者で大型観光バスでの京都行きですから、車内はユッタリとしています。
 ですが、GONsanの歳となりますと、飲めばスグにトイレ休憩が待ち遠しくなってしまいます(^-^)

 で、福山を出ましてまず最初のトイレ休憩が吉備SAでありました。
 そこでとりあえず小休憩。
 何気なく周辺を見廻しておりますと、こんな方が…
 昔はこんな方々を「ヒッチハイク」と言っておりましたけど、現在は何と言うのでしょうねぇ〜確か、添乗員さんが、今は「ボードハック」と(^-^)

 ◆ボードハック(ボードに目的地を記入して掲げる)

 ボード、スケッチブックなどに目的地や目的地より手前の有名な地名を記入して、走っている車を停めます。
 ドライバーにとっては、ヒッチハイクをしている人が道路脇に立っているのが視界に入るので発見しやすく、どこまで行きたいのかも分かりやすいため、初心者にはオススメの一番手っ取り早い方法だと言えます。
 ボードを書くにあたってのポイントをご紹介します。

 @太くて濃い字で書く(細くて筆圧の弱い字では、スピードのある車には何も見えていません)
 Aメッセージなどを添えてみる(「途中の○○まででも!」など)
 B印象の良い顔文字やシールを付け加えてみる
 C綺麗で大きく見やすい字で!(何より一番大事なのはコレ)

 地名は、分かりやすいものにしましょう。「東京」に行きたいのならば、そのまま「東京」と書くのではなく、「新宿」や「渋谷」などの方が分かりやすいですよね。
 そして、車に止まってもらうために有効なコツは、いきなり最終地点の目的地を書かないこと。
 例えば、「名古屋」が最終目的地だとしましょう。ここで「名古屋」と書いてしまうと、名古屋まで行く車と遭遇する確率だけでもぐっと下がってしまいます。
 名古屋方面の近場の都市などを細かく切り分けて目的地に設定し、少しずつ進んでいくのがスムーズなヒッチハイクの鉄則になります。


 …と、WEB上で検索致しますと、こんな記載がありました(^_^)v
 ふ〜ん、最近は「ボードハック」と言うようですねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 吉備SAを出ますと、次のトイレ休憩は三木SA。そして、三木SAを出発しますと、いつの間にか眠ってしまいましたGONsanです。
 ハッと気が付きまして眼を醒ませますと、既に京都に到着ですネ。桂川PAでトイレ休憩でありました(^.-)☆

 京都南ICで名神高速道とはお別れで、一路、昼食場所であります智積院一休庵にと向かいます。
 行程表では智積院到着はP.M.0:45でありましたが、智積院到着はA.M.11:58。昼食には実にタイムリーな到着となりました。

 ◆宿坊 智積院会館

 「宿坊」はお寺にある宿です。どなたでもご利用できます。また昔のような相部屋もありませんので、個室でお寛ぎいただけます。
 宿坊の特色は施設や食事がシンプルであることです。シンプルな一夜をお過ごしになって、少しだけ日頃の暮らしを振り返ってみませんか。

 ◆智積院

 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。

 ・歴史

 智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
 智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

 近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。

 祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
 この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
 近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。

 ・伽藍

 東大路通りと七条通りのT字路に面して総門(東福門院の旧殿の門を移築したもの)が建ち、その先には講堂(平成7年、1995年、300年ぶりに再建)、大書院、宸殿などが建つ。講堂には2008年に、「日本の春夏秋冬」を題材にした田淵俊夫の襖絵(墨絵)60点が奉納されている。また、大書院に面した庭園は千利休好みと言われ、国の名勝に指定されている。中国の廬山を模して造られていて、石橋より奥は禅寺・祥雲寺の時代に、滝の落ちる正面は江戸時代に修築されたものとされる。
 境内奥には金堂(本尊金剛界大日如来、地下に胎蔵界大日如来)、明王殿(大雲院本堂を移築したもの、本尊不動明王)、大師堂(1789年築、空海を祀る)、密厳堂(1667年築、新義真言宗の祖・覚鑁を祀る)などが建つ。
 他に収蔵庫(国宝障壁画を収蔵)、智積院会館(宿坊)などがある。


 …と、こんな智積院でありますけど、智積院一休庵での昼食は、確かにシンプルではありますけど仲々美味しく戴けました(^_^)v
 昼食を終えますと、早速、境内を散策となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 境内散策スタートで、正面の金堂に進みながら左手に眼を向けますと眼に入りましたのが『名勝庭園』の案内板が…
 なら、まずはこちらから…と進んで行きますと、「こちらは拝観料が必要です」と拝観受付所からの声(^-^)
 う〜ん、残念、有料でありましたか…では、Uターンです(^.-)☆

 ◆名勝庭園

 「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時代に原形が造られました。
 その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言われるようになります。
 築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています。
 国宝の障壁画がかつて飾られていた大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます。
 その大書院より眺めることができる庭園は、四季折々の美しさで私たちの目と心を楽しませてくれますが、特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぎ、毎年多くの観光客が訪れます。

 引き続き金堂方向に進んでいきますと、右手に『玄宥僧正』の像が…

 ◆玄宥僧正

 玄宥(げんゆう)享禄2年(1529年)-慶長10年10月4日(1605年11月14日)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての真言宗の僧。

 ・経歴

 下野国の吹上城主膝付又太郎の子。18歳の頃より根来山で修学し、南都・園城寺・比叡山で諸宗の教学を学んだ。その頃の根来山は6千人ほどの学僧を擁する巨大な教育機関となって栄えていた。天正5年(1577年)根来山に3千近くあった塔頭の一つ智積院に住し、推挙され小池坊専誉とともに根来山の能化職に就く。

 しかし、根来寺は教育機関であるとともに大量の鉄砲や多くの僧兵を抱えており巨大な軍事力を有していたことや、地域支配と深く結びついていた宗教勢力であることから天正13年(1585年)豊臣秀吉による紀州征伐が起こり、玄宥は高野山に逃れた。以後、玄宥は、真言宗系の京都の高雄山神護寺や醍醐寺三宝院などを転々とした。
 慶長5年(1600年)秀吉亡き後、再興の訴願を続けていた玄宥に徳川家康から智積院再興の許可が出され、翌年慶長6年(1601年)に京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院は再興された。さらに翌年慶長7年(1602年)には二百石の寄進を受ける。
 玄宥は、坊舎のある「上の寺」と講堂のある「下の寺」を建立し、寺名を「五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)」と号し、智積院再興第一世となった。再興から4年後の慶長10年(1605年)11月14日、77歳で没した。

 うん、うん、大変ご苦労の上、智積院を再興されましたようですネ。
 仲々端正なお顔立ちで、また聡明さが伺えますイィお顔でありました(^_^)v
 それから、金堂に参拝です。

 ◆金堂

 総本山智積院の中心的な建物であり、金堂と呼ばれています。宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。
 毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されます。
 以前の金堂は、元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に建立されました。
 しかし、明治15年(1882)に火災により焼失しました。


 …と、こんな金堂のようであります。
 本尊大日如来の尊像を何枚かパチリとなりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 続いてお隣りの『明王殿』へ。

 ◆明王殿

 明王殿は、昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物です。
 その後、平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されております。ご本尊は不動明王様で、明王殿は不動堂とも呼ばれます。


 …と、こんな明王殿であります。
 で、早速、中に入りまして不動明王様をパチリです(^-^)/"

 

 

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →