2008/05/16〜05/18
講中の皆様と静岡方面のお寺巡り <7/10>

  

 ■2008年06月03日
 町内講中の皆様と静岡方面のお寺参りJ

 土肥港での漁の水揚げを暫し見物後は、また散策続行のGONsanです。
 夏になりますと海水客で大変賑わうのでしょうけど、この海浜沿いの散策道を宿泊ホテル「土肥マリンホテル」の前を通り過ぎ逆方向にと進んでおりますと、眼に入りましたのがこの巨大なシッポ(^-^)

 何の魚の尾っぽなのか分かりませんけど、無造作にぶら下げて干してありました(^.-)☆
 ふ〜ん、天日干しの後、これはどぅされますのでしょうねぇ〜
 珍しい光景ですから、とりあえず1枚パチリとなりました(^-^)

 ここでは早朝から数名の若者が釣りの真っ最中。
 でも、バケツの中を覗きましても収穫はゼロ。
 「今日は釣れないなぁ〜」との会話中の声が洩れて来ましたけど…

 別にGONsanがバケツの中を覗き込んでいるからと言って、わざわざ弁解して頂かなくてもイィのでありますが…
 とりあえず遊歩道もここでオシマイです。
 ついでに“恋人岬”まで出かけて見たい気持ちに駆られましたけど、朝食までの残されました時間は後わずか。
 とてもそんな余裕はありませんで残念(^-^;

 仕方なく、この周辺の眼に入ります景観を撮りまくりとなりました(^-^)
 そして、また引き返し朝食時間に間に合いますよう土肥マリンホテルにと戻っていきますGONsanなんでありました(^-^)//"

 

   

 

 

   

 

 

  

 

 ■2008年06月04日
 町内講中の皆様と静岡方面のお寺参りK-1

 朝食前の散策を終えホテルにと戻って来ますと、う〜ん、もぅ皆様お食事中でありました(^-^)
 遅ればせながらGONsanも膳を前にし早速戴きです(^.-)☆
 添乗員sanが言っておられましたけど、この土肥マリンホテルsanの食事…前夜もそぅでしたけど、仲々立派で美味しいものでありました(^_^)v

 そして、A.M.8:00。定刻に土肥マリンホテルsanとお別れとなりまして、今回の最後の参詣寺であります「妙法華寺」にと向かう事になりました。
 バス車内ではいつの間にかウトウトとしていまして、ハッと気が付きますと早や“妙法華寺”にと到着です。


 ■経応山 妙法華寺

 当時は、日蓮聖人の本弟子、六老僧第一の弁阿闍梨日昭上人が開創した。もと鎌倉の浜にあった。聖人が日頃、日昭上人を浜殿と呼んでいたのは、この浜の地名によるものである。宗門としては最も初期の寺に属する。

 上人は、宗祖の比叡山遊学中の学友であったが、聖人に共鳴し、鎌倉で法華経弘通を始めるとすぐ最初の弟子となった。鎌倉の浜土に草庵を構え、教化活動を行っていた。その後、聖人が身延に入山すると、日朗上人とともに鎌倉の日蓮教団の中心的役割を果たした。一門を日昭門流とか浜土門流と称し近代は玉沢門流と呼んだ。

 弘安7年(1284)12月、越後の豪族風間信昭は、日昭上人の庵室を整備して法華寺と称した。
 文禄3年(1594)、14世日苞上人は、伊豆加殿村に移建、現寺号に改めた。元和7年(1621)、養珠院お万の方・英勝院お勝の方・太田道灌末裔らの浄財で大伽藍が完成した。

 住所:静岡県三島市玉沢1
 交通:JR東海道三島駅(新幹線停車)南口下車→バス玉沢行き→終点下車 三島駅よりタクシー約20分

 
 …と、こんな由緒ありますお寺で、妙法華寺の庫裡は寛政3年(1791)の火災で焼失し、寛政5年(1793)に再建されたものとの事。
 庫裡には、かまどがある土間、板の間といくつかの室があり、県内でも最も完備された姿で残っているとの事でもあります。

 頂いたパンフレットによりますと、


 当時の建物は、総門、仁王門を経て正面に十八間四万の大本堂(八日堂)、大中鐘楼、五重の塔、経蔵、三光堂、奥の院、右側に大客殿、祖師堂、大中書院、大小庫裡、周囲に廿四の塔中寺院等凡そ二四〇棟。雄大壮麗の寺観を誇ったものですが、惜しいかな百七十年後、寛政三年の大火に遭ったが、現在の伽藍は百数十年前、第四十一世日桓上人(俳聖一瓢)等の再建によるものが多い。

 との事で、大火にさえ遭いませんでしたら、さぞ『雄大壮麗の寺観』を誇ったものであろう事はGONsanにも容易に想像はつきましたねぇ〜勿体ない事であります。
 仲々立派なお寺でありましたねぇ(^-^)//"

  

 ■経応山 妙法華寺

 当時は、日蓮聖人の本弟子、六老僧第一の弁阿闍梨日昭上人が開創した。もと鎌倉の浜にあった。聖人が日頃、日昭上人を浜殿と呼んでいたのは、この浜の地名によるものである。宗門としては最も初期の寺に属する。

 上人は、宗祖の比叡山遊学中の学友であったが、聖人に共鳴し、鎌倉で法華経弘通を始めるとすぐ最初の弟子となった。鎌倉の浜土に草庵を構え、教化活動を行っていた。その後、聖人が身延に入山すると、日朗上人とともに鎌倉の日蓮教団の中心的役割を果たした。一門を日昭門流とか浜土門流と称し近代は玉沢門流と呼んだ。

 弘安7年(1284)12月、越後の豪族風間信昭は、日昭上人の庵室を整備して法華寺と称した。
 文禄3年(1594)、14世日苞上人は、伊豆加殿村に移建、現寺号に改めた。元和7年(1621)、養珠院お万の方・英勝院お勝の方・太田道灌末裔らの浄財で大伽藍が完成した。

 住所:静岡県三島市玉沢1
 交通:JR東海道三島駅(新幹線停車)南口下車→バス玉沢行き→終点下車 三島駅よりタクシー約20分


 ■妙法華寺

 三島市郊外に位置する、日蓮宗の古刹
 もともとは日昭上人によって鎌倉に創建され、江戸初期に徳川家康の側室だったお万の方の尽力によりこの地に移されました。日蓮総本山重要文化財の絹本着色日蓮上人像ほか数多くの寺宝を蔵し、境内には釈迦ゆかりの菩提樹や沙羅双樹が茂っています。

 

(左)(右)山門横手に建つ日蓮上人像

 

(左)喝光門 (右)庫裡 大庫裏前の睡蓮を植えた水瓶

 ■庫裡(くり)

 --- 市指定文化財、建造物 ---

 庫裡とは寺院の台所のことです。妙法華寺の庫裡は寛政3年(1791)の火災で焼失し、寛政5年(1793)に再建されたものです。
 庫裡には、かまどがある土間、板の間といくつかの室があり、県内でも最も完備された姿で残っているものです。

   

 

 

   

   

 ■2008年06月05日
 町内講中の皆様と静岡方面のお寺参りK-2

 本堂の前を通りますと、嫌でも眼に入りますのがこの「金剛力士像」(^.-)☆
 
 ■金剛力士像(こんごうりきしぞう)

 --- 市指定文化財、彫刻 ---

 本堂に安置されている金剛力士像は、鎌倉時代に仏師湛慶(たんけい)によって作られたと伝えられています。
 阿形像(あぎょうぞう)と吽形像(うんぎょうぞう)が対(つい)で置かれています。合わせて「阿吽(あうん)」となり、人の一生が表現されています。

 像は乾漆像(かんしつぞう)です。
 檜(ひのき)材の寄木造りで眼は玉眼、高さは約250cmで、両像とも頭に髻(もとどり)を付けています。勇壮で筋肉質の健康美を感じさせる像の強さにあやかり、足腰の回復を願い、履き物を供えて祈願をします。

 古くは、像の足に合う大きさの草鞋(わらじ)を供えたそうです。


 …と、こんな金剛力士像なんですけど、元々は山門に設置してありましたとか。
 それが火災発生を契機に、この本堂に移されましたようです。

 それからと言うものは、旅の途中に立ち寄られました旅人の皆様が、この金剛力士像の逞しい足に眼が向きまして、道中の安全を願って金剛力士像の逞しい両脚を撫でて祈願しましたとか…

 それ以降は、こんな方々が後を絶たず、わらじを御供えしましたりして、いつまでも健脚でありますようにと新たな信仰も生まれましたとか(^-^)
 そんな願いを託しますほど、金剛力士像のおみ足は頑丈で立派でありました(^_^)v

 ただ、皆さんが撫で廻されますから歴史あります芸術品としての価値は低下しましたとか…
 国か県の重要文化財として現在申請中で、「足には触らないようにして下さい」とのお寺のお願いにも拘わらず、我が家の嫁さんなんぞは、しきりに撫でておりましたねぇ〜
 困った人ですよ(^-^)

 過去の経緯から納得ではありますが、本堂にこぅして立派な金剛力士像が設置してありますのは、結構珍しい光景ではありましたネ(^-^)//"

 ■金剛力士像(こんごうりきしぞう)

 --- 市指定文化財、彫刻 ---

 本堂に安置されている金剛力士像は、鎌倉時代に仏師湛慶(たんけい)によって作られたと伝えられています。
 阿形像(あぎょうぞう)と吽形像(うんぎょうぞう)が対(つい)で置かれています。合わせて「阿吽(あうん)」となり、人の一生が表現されています。

 像は乾漆像(かんしつぞう)です。
 檜(ひのき)材の寄木造りで眼は玉眼、高さは約250cmで、両像とも頭に髻(もとどり)を付けています。勇壮で筋肉質の健康美を感じさせる像の強さにあやかり、足腰の回復を願い、履き物を供えて祈願をします。

 古くは、像の足に合う大きさの草鞋(わらじ)を供えたそうです。

   

 □妙法華寺

 ◆当寺の由緒

 当寺は経王白妙法華寺といい、日蓮大上人の一の弟子(六老僧第一)大成弁日昭上人によって、凡そ七百年前鎌倉に建てられ、その後、越後、伊豆加殿を経て元和七年、今から三百五十余年前、当地に移転大成されました。

 この移転に尽力されましたのは、徳川家康公夫人で水戸黄門光囲公の祖田にあたる有名な養珠院お万の万、英勝院お勝の方及び江戸城を築かれた太田道灌公のご子孫と、全国末寺八十余ヶ寺並びに徳川幕府の協力によるものです。

 当時の建物は、総門、仁王門を経て正面に十八間四万の大本堂(八日堂)、大中鐘楼、五重の塔、経蔵、三光堂、奥の院、右側に大客殿、祖師堂、大中書院、大小庫裡、周囲に廿四の塔中寺院等凡そ二四〇棟.雄大壮麗の寺観を誇ったものですが、惜しいかな百七十年後、寛政三年の大火に遭ったが、現在の伽藍は百数十年前、第四十一世日桓上人(俳聖一瓢)等の再建によるものが多い。


 ◆庭園と建物

 天を摩す高松老杉に囲まれた境内凡そ二万坪、重厚な石垣、名勝百聞塀を巡らして、風格ある法殿(本堂)、祖師堂、大書院、大庫裡.宝物館、更に駿府城内お万の方の居間を移した奥書院、六十一世日官上人創設の調養泉等がならび建ち表.中、奥の広壮な庭園には四季折々の花が絶えず、菩提樹、沙羅双樹などの聖樹も織りまぜて、大正昭和の先覚者、田中智学先生が「京都のような寺らしい高雅な風韻がある」と激賞された、正に俗腸を洗う清雅な環境である。

 --- (パンフレットより引用) ---
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