忠犬ハチ公・浅草寺 <1/9>

忠 犬ハチ公

 忠犬ハチ公は、牡の秋田犬で、大正12年11月、大館市大子内(おおしない)の斎藤義一宅で、父:大子内号、母:胡麻号の間に生まれました。
 ちょうどそのころ、東京帝国大学農学部教授・上野英三郎博士が、純系の日本犬を捜していました。それを聞いた博士の教え子の世間瀬千代松氏は、部下・栗 田礼蔵氏の知り合いの斉藤宅から子犬をもらうことを思い付いたのです。大正13年1月14日、こうして生後50日前後の幼犬が上野博士のもとへ送られまし た。幼犬は、博士と共に食事をするほど可愛がられ、「ハチ」と名付けられました。

 やがてハチは立派な秋田犬に成長し、博士の送り迎えもするようになり、ハチと博士の間に強い絆が結ばれました。
 しかし、大正14年5月21日、いつものようにハチに送られて出勤した博士は大学の教授会において講演中、脳溢血に倒れ急逝。通夜・葬儀の間、ハチは食 事を与えても口にせず、その状態はしばらく続いたといいます。
 博士の没後、浅草に引っ越した後も、夜、8キロ離れた渋谷方面に走って行くハチの姿がたびたび見られました。そんな状況が1年も続いたため、ハチの心情 を想って顔なじみの代々木の植木職人・小林菊三郎宅に預けられることになりました。

 しかし、夕食を終えると小林宅から700m〜800mの上野邸あたりをうろつき、その後渋谷駅の改札口前にじっと座ります。暑い日も、雨の日も、雪の日 もハチは改札口前に座り続けました。

 ハチは、人間や仔犬に対しては決して牙を向けたり吠えたりしませんでしたが、一度だけ、ほかの犬に咬みつかれたことがあり、それ以降左耳が垂れてしまい ました。

 このようなハチの姿に、いつしか多くの人々が同情を寄せるようになり、次第に弱りはじめたハチを気遣い渋谷駅の職員も面倒を見るようになりました。
 昭和10年、ハチは海外にも紹介されたり、映画になったりと有名になっていましたが、フィラリアにより3月5日、容態が急変、その3日後の3月8日、ハ チは駅から離れ、孤独に13年(人間にすると90歳)の一生を終えました。

 ハチは、青山墓地の上野博士とともに眠っています。

 ハ チ公銅像の建設
 
 昭和7年10月4日、東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルで載ったのをはじめ、新聞、ラジオなどで報道された老犬ハチの元 に、人々から見舞金等が送られてきました。同年11月、日本犬展に招待犬として招かれるなどハチの名は全国的に知られるようになり、このころから「ハチ 公」と尊称で呼ばれるようになりました。昭和8年にはポチクラブ(全世界の愛犬家組織)の名誉会員に推薦され、昭和11年には「恩ヲ忘レルナ」と題して、 尋常小学校の修身二巻にも載せられました。

 ハチ公が有名になるに従い、付近の住民からはハチ公の銅像を建設しようという声が出始めました。昭和9年正月には、有志によって「忠犬ハチ公銅像建設趣 意書」が作成され、建設資金の募金運動を開始、全国各地から好意の寄付が集まりました。

 この寄付により、台座の高さ180p、ハチ公像の高さ162pの立派な銅像が渋谷駅の改札口前に建設され、昭和9年4月21日、除幕式が行われました。 これには博士の未亡人、各界の名士など約300人が参加し、ハチ公はこの一部始終を吉川駅長に連れられて見守っていたといいます。

 5月10日には、銅像作者である帝展審査委員安藤照氏の手による鋳造「忠犬ハチ公臥像」が天皇、皇后両陛下にも献上されています。生前に銅像が造られ、 しかも塑像が宮中に供されるというのは、人を含めても前代未聞のことだったでしょう。

 浅 草寺

 大黒天をお祀りしているのは浅草寺です。

 推古天皇36(628)年3月18日未明のことでした。今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまの はまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像がかかりました。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依 して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。これが浅草寺のはじまりです。

 大化元(645)年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立、また夢告によりご本尊は秘仏と定められ武蔵国の観音 信仰の中心地となりました。
 現在の本堂再建工事にあたって出土した数々の遺物から、金龍山浅草寺は少なくとも平安期には大寺の伽藍をここ武蔵野の一漁村に構えていたことが判りまし た。
 平安期はじめ、慈覚大師の巡拝により伽藍の整備が行われ、その後一層信者の層も厚くなりました。以来、慈覚大師を中興開山と呼んでおります。
 鎌倉期以降になると将軍自ら帰依するに及び、名将たちの篤い信仰を集めていよいよ観音霊場として知られるようになりました。
 江戸時代、天海僧正(上野東叡山寛永寺の開創)の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しま れ、以後の隆盛をみるようになったのです。

 今日、東京(江戸)の発展は江戸城構築からの徳川幕府にはじまると思われがちですが、こうして浅草というところは古くから宗教的にも文化的にも江戸の拠 点であった訳です。江戸が東京にかわったときでも、文明開化の先駆的な役割を果たし、庶民の信仰と文化の一大中心地として機能してきたことも当然といえる のです。

 大 黒天

 古代インドにおけるマハーカーラ神のことで、悪魔退散の強力な守護神であります。それが、仏教の日本への伝播とともに一方では魔を払う軍神、また他方で は食料を司る台所の神として崇められるようになりました。

 このように、古くは福神と軍神の二面性を有していたのですが、室町時代になって「大黒(だいこく)」と「大国(だいこく)」の音読みが同じことから次第 に日本の伝統神に数えられる大国主命(おおくにぬしのみこと)になぞられるようになったのです。

 そして信仰が大衆化されるにしたがって、旧来の台所の守護神に大国主命の神徳が加わって、糧食、財宝の神として広くまつられ、いつしか軍神の性格は弱ま り、福徳の神として今日にいたっているのです。
--- 観光協会で貰いまし たパンフレットより ---
  

(左)(中)夕食は“池尻大橋”駅 近くの居酒屋でした(^.-)☆ (右)池尻大橋駅の地下鉄ホームで

  

(左) (中)(右)渋谷の“忠犬ハチ公”の像です(^_^)v

  

↑↓  いずれも渋谷駅前の夜景を撮りましたものです(^.-)☆

  

  

(左) 渋谷駅前の夜景 (中)(右)忠犬ハチ公の像です(^.-)☆

  

(左) 渋谷駅前では夜遅くまで大勢の人が… (中)(右)浅草の雷門の大提灯です(^.-)☆

  

(左) (中)(右)さすがに雷門の大提灯の下では、大勢の方々がカメラを向けておられました(^.-)☆

  

  

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