徳
島城
かっての蜂須賀家25万7千石(阿波・淡路)の居城、徳島城です。
この城は残念なことに明治2年の版籍奉還の際徹底的に壊されたため、現存する建築物はありません。唯一残っていた鷲の門も第2次世界大戦の徳島大空襲で
焼失、その後、平成になって再建されたものです。
現在はこれら門や橋などのわずかな再建物、石垣とお堀、そして表御殿庭園にかつての面影を見るのみです。
鷲の門の名前の由来については幕府に鷲を飼うからと申し立て、建造したことからと伝わっています。一見堂々とした感じですが、近づいて見
ると休憩小屋のような造りで再建されており、ちょっとサビシイ。
南北朝時代の至徳2年(1385)四国の南朝方を破った細川頼之(室町幕府の管領)が城山に小城を築いたのが徳島城の始まりである。
風光の美しさが中国の渭水に似ていることから渭津、渭山城と称した。
その後、しばしば阿波の豪族の居城するところとなり、永禄年間(1558〜1569)には山上の渭山城に森高次、麓の寺島城に福良吉武が居城していた。
天正10年(1582)長宗我部元親が四国を平定し、阿波国も長宗我部氏の支配するところとなったが、天正13年(1585)豊臣秀吉に
よる四国征伐で
長宗我部氏は追放され、秀吉は阿波一国を家臣の蜂須賀正勝に与えようとした。しかし、正勝は老いの身ゆえに子の家政に与えられるよう申し出で、かくして蜂
須賀家政は阿波一国18万石の大名となり、直ちに徳島城の築城に着手した。
徳島城築城工事は従来の渭山、寺島2城を併合する大規模なもので、内堀と外堀には河川を利用して、内堀の中に本丸・二の丸・三の丸を階段状に配し、麓に
は御殿を設けた。徳島城の築城に際しては、豊臣秀吉の命令で小早川隆景や長宗我部元親などが支援し、天正15年(1587)に完成した。
蜂須賀家政の嫡男至鎮(よししげ)は元和元年(1615)の大坂の陣の軍功により淡路一国8万国を加増され、以後、蜂須賀氏は阿波・淡路26万石の大名
となり、徳島城は蜂須賀氏15代の居城として明治維新を迎えた。
はじめ織田信長に属したのち羽柴秀吉に仕え諸戦に参陣する。秀吉の四国征伐で阿波木津・一宮城を攻略し阿波一国十七万石を与えられた。慶長の役では朝鮮
に渡り蔚山城の浅野幸長を救援し危機を救った。関ヶ原の戦いで西軍に属したが病のため出兵はせず、子・至鎮が東軍に属したため領地を安堵された。
(中)
(右)岡山駅構内で 桃太郎の像です(^.-)☆
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JR“吉成駅”で (中)外人さんがマップで行き先を探しておられました (右)JR“吉成駅”ホームで
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(中)いずれもJR“吉成駅”で撮りましたものです 外人さんがまだ… (右)早朝散策は“徳島城跡公園”でした
↑↓
いずれも早朝散策時に“徳島城跡公園”で撮りましたものです(^.-)☆
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鷲の門です ↑↓ いずれも徳島城跡公園内の景観です この時間はまだ暗くてよく見えません(^.-)☆
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両国橋で (右)徳島市役所横の公園で
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(中)徳島市役所近くの景観です (右)市役所前の陸橋からJR高徳線を撮りました
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(中)(右)いずれも“鷲の門”です