福山城外堀遺構見学会 <1/3> |
2007/05/12(土)
今日・5/12(土)は、先日の中国新聞sanのこんな記事に誘われまして、福山市民球場での「広陵×呉宮原」戦の観戦後、JR福山駅前の福山城外堀遺構の見学会に出かけて来ました(^.-)☆
《12日に福山城外堀遺構説明会》
--- 2007/05/09 中国新聞 ---
JR福山駅前の福山城外堀遺構の発掘調査を進めている市教委は12日午後1時から、市民向けの現地説明会を開く。見つかった石垣や出土品の成り立ちを解説し、当時の城の威容を感じてもらう。高さ3メートル、幅25メートルの石垣、石垣上の土塀を支える控え柱穴、福山藩主水野氏の家紋を刻む瓦などを発掘した。説明会は、市教委の畑信次学芸員が、時代背景を交え当時の城の姿や工法を説明する。参加無料。
福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る発掘調査 現地説明会
2007年(平成19年)5月12日(土) 13:00〜
福山市教育委員会・福山市埋蔵文化財発掘調査団
【調査場所】福山市三之丸町(福山駅前)
【調査期間】2007年(平成19年)2月15日から
【遺 跡 名】福山城跡
【調査目的】福山市が設置を予定している地下送迎場の建設工事により、遺跡へ影響が及ぶ可能性がある範囲について、事前に発掘調査を実施した。
【調査概要】
福山城は、西国を見張る役割をもって1619年(元和5年)に備後に入ってきた水野勝成によって築城され、1622年(元和8年)に完成した近世城郭である。水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と続き明治維新に至るまで藩政の中心となった。城郭の形成は、最高所の本丸を中心に、二之丸、三之丸がその廻りを囲んで配された輪郭式の平山城で、さらに内堀と外堀が二重に巡らされる。ただ、城郭の北側には堀は巡らされず、丘陵や川といった自然の地形を利用して防御施設としていた。
今回の調査場所は、福山城の正面玄関となる大(追)手門とその東側にある二重櫓の間の外堀と御勘定所跡の一部である。
@御勘定所跡
勘定所に関わる屋敷跡等の検出が予想されましたが、度重なる駅前利用により地表面は掘削されてあり、遺構は確認できなかった。
ただ、外堀石垣の上端から北側約2mの位置で、石垣ラインに沿って一列に円形の穴が9箇所検出されました。直径1.5m、深さ1mほどのすり鉢状の穴で、その中に直径20cm〜30cmの柱の痕跡が検出されたことから、柱を立てるための穴と判断された。しかも、石垣に沿って3m間隔で掘られていることから、石垣上に造られていた土塀を支える柱(控柱)の跡と考えられた。
A外堀石垣
石垣は、外堀の北側の石垣であり、御勘定所の南側の土台となる石垣でもある。検出した範囲は、東西25m、高さ3mである。石材どうしの接合部をある程度打ち欠いて接合面を増やした「打ち込み接(は)ぎ」で、長さ70cm前後の石を組み合せながら積み上げている。石材は花崗岩でほとんどが笠岡沖の島々のものと考えられる。多くの石材には石を割る時の矢穴痕が見られ、また約30個の石材には、石工名や採石場を示すと言われる刻印が残る。石垣の裏側には、排水をよくし、石垣に圧がかからないようにするため、裏込として大量の栗石が詰め込まれている。
石垣の基礎石となる根石は、地盤となる砂上の据えられ、上部に積まれる石材よりやや大きめで、前面に15cm前後突き出ている。なお、根石の下に胴木は置かれていなかった。
また、石垣の基底部の前面には頭大の石材(捨石)が、幅1.5m、高さ0.5mにわたり乱雑に積み上げられていた。これは、石垣の地盤が砂であることから、堀の水の流れによって基礎石下の砂が洗われて(洗掘)、石垣が崩壊することを防ぐ役割を果たしたものと考えられる。
B出土遺物
堀内から、藩主水野氏の家紋(おもだか紋)や巴紋などの瓦が出土しています。また、外堀が埋め立てられた大正期から昭和初期にかけての陶磁器やガラス製品なども出土しています。
Cその他
控柱の存在や多数の瓦の出土、また、城郭図などから今回検出した石垣上には、土塀が構築されていたこともうかがえた。
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