本因坊秀策広島県因島市の出身なんですよ

 
 
 GONchanのご主人様は、車の多い因島島内でジョギングする事はあまりありませんが、一昨年のいつでしたか…日曜日に因島島内をジョギングしておりまして、「本因坊秀策の碑」を発見…と言いますか、見つけてしまいました。
 なんと、本因坊秀策が、私の居住しております因島の出身であったとは全く知りませんでした。

 ジョギング中に「本因坊秀策の碑」を見つけまして、思わず中断し、この碑を注視してしまいました。
 碑には、碁盤の形をした台座の上に、ただ「本因坊秀策の碑」とのみ刻まれておりまして、傍らの説明板に「本因坊秀策」は、江戸時代末期に広島県因島市外浦町で生まれた。囲碁の天才で、江戸の徳川幕府が毎年行う囲碁界最高峰の御城碁において19連勝するという偉業を達成した男で有る。現在、本因坊の名は、全国専門棋士戦の優勝者の称号となっている…」と記載。
 私も、時たまお取引先と4目頂いてお相手する機会が有りましたが、本因坊秀策が因島の出身であったとは本当に驚いてしまいました。

 秀策の碑は、因島石切神社の一角に建立されておりまして、もっと詳しい説明書きは無いものかと見回しておりますと、「ご自由にお取り下さい」と「碁聖、本因坊秀策物語」の74ページの漫画本が整然と積んでありまして、「本当に無料で貰って良いのだろぅか…」との想いはありましたが、喜んで貰って帰りました。

 この漫画物語によりますと、秀策は幼き頃より囲碁の道を母親より学び、その才能は六歳で三原城主・浅野忠敬の耳にも入り大変気に入られたようです。

 三原浅野藩「浅野甲斐守忠敬」の家臣として生長し、江戸の浅野家を通じて本因坊家へ弟子入り。
 江戸に着いた栄斎(秀作の幼少の名)は師の本因坊文策より「秀策」の名をいただき安田秀策と名乗るようになり、同時に二段に昇進した。備後国生まれの秀策だったが、安芸国浅野藩の領分だったため安芸小僧の呼び名で江戸中にその名が伝わり、10ヶ月後には三段に昇進、さらにその翌年には四段にと驚異的な速さで昇段していった。

 この頃全国で四段以上の棋士はわずかに11名。その中に15歳の秀策が仲間入りしたのである。そして、嘉永元年、19歳になった秀策はその実力を認められ本因坊跡目となり、本因坊家の娘、花子と結婚する。
 同年12月15日、江戸城に出仕、12代将軍徳川家慶に御目見えし14世本因坊跡目秀策となり、その直後六段位をうける。
 本因坊跡目となった秀策は、いよいよ囲碁界最高峰の御城碁へ参加することになる。御城碁は幕府が行っている囲碁の御前試合であり、将軍の目の前で一門の名誉をかけて対局するものである。

 しかし、碁の対局には時間がかかるため、前もって下打ちというものが行われ、6日間、お城の中に缶詰となり、面会、外出は一切許されぬ事になる。それは厳重なもので「碁打ちは親の死に目に会えぬ」とまで言われた。こうして打ち上げたものを将軍様の目前で並べて御覧に入れるのである。

 この御城碁に参加して12年の間、秀策は将軍の目前で19局を闘うことになるが、一度も敗れることなく死ぬまで勝ち続けるのである。
 幕末の天下大動乱の中にあっても御城碁は毎年行われていたが、文久元年(1861)秀策が19連勝目を飾ったのを最後に御城碁は二度と行われる事はなかった。
 御城碁は毎年11月17日に行われていたが、この同じ年の12月8日秀策の母が死去したとの報が秀策のもとに入る。
 秀策は、この知らせを受けるとすぐに喪に服し供養のための精進生活に入ったが、日に日にやつれ、やがて病没する。
 碁の好きな母に育てられ、日本第一の棋士となった秀策は34歳の若さでこの世を去るのである。

 74ページの漫画本の内容を要約しますと、こんな内容となるでしょうか…
 碁を嗜まない方に取りましては、あまり関心も無いものかも分かりませんが、私は感激してしまいましたよ。あの本因坊秀策が、幼き頃、私がジョギングしているこの道を歩いたのかもしれない…と考えますと、本当に感動してしまいます。
 何年か前に何かの本で読んだのですが、戦前、台湾から彗星の如く囲碁界に登場しました天才、呉清源が「貴方の先生はどなたですか?」との問いに「私の先生は本因坊秀策です」と彼は答えたそぅです。秀策の棋譜で勉強したと言われているそぅですが、本因坊秀策の物語を読んだ今、何となく分かるような気がしてなりません。
 本因坊秀策が、私が住んでいますこの因島の出身だったとは、本当に驚いてしまいました。

 まぁこんな調子で、狭い島内ですから、ジョギングしておりますと何かと隅々まで眼に付いてしまいまして、結構地元の皆様より物知りになりつつ有るようですよ(^-^)


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