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これらの画像は、瀬戸内を見下ろします因島公園より撮りましたものです。ご主人様の好きな事の一つに、GONchanを連れまして島内の山歩きがあるのですよ(^-^) この山歩きの中で、土生商店街を見下ろします因島公園からの展望が、GONchanとご主人様の好きな場所の一つなんですよ。
この因島公園から瀬戸内の島々、土生商店街を展望しておりますと、何故か心が和らいで来るのです。それに、瀬戸内の多島美を感じますしイィものですよ。
瀬戸内の島に生活しています関係で、暇さえありますと地図帳を広げまして、今度はあの島に行ってみよう…この島にも行ってみよう…と色々思案していますが、いつも地図帳を眺めていますと不思議に思う事があるのですよ。
瀬戸内海には、代表的な芸予諸島、備讃諸島、塩飽諸島…を始め、様々な島が存在しておりますが、どの島がどの県に所属しますのか見ていますと不思議ですネ。例えば広島県と愛媛県を見てみますと、県境は広島県側陸地と愛媛県側陸地の中間上の海上とはなっていませんので面白いものです。
ある島は、広島県側の陸地と目と鼻の先でも愛媛県、またある島は、愛媛県側陸地が目の前に見えていましても広島県と言う風に…岡山県と香川県の島々を見ておりましても、同様の事が言えるようですネ。何故、こんなに入り組んだ県境が定められたのだろぅ…と、つくづく不思議な気持ちを抱いてしまいます。
一昨年のいつでしたか、因島に転入しまして間もない頃、因島市の収入役さんとお話しする機会が有りまして、その雑談の中で興味深い話題が出て来ました。
因島市には、周辺の愛媛県の島々から沢山の人がフェリーで通勤して来られまして、朝夕の通勤時には愛媛県ナンバーの車輌・バイクが列を連ねて走っております。こんな現状より「周辺の島々は広島県の所属と錯覚してしまいますネ」と、私が言いましたのがキッカケで、何故このような県境が定められたのか、その経緯の説明で収入役さんの長いお話しへと至ってしまいました。要約しますと、江戸時代の初期に、各藩の管轄地を定めますのに、各藩の名前を書きました樽を、広島・愛媛・岡山・香川の各地から一斉に瀬戸内海上へと漂わせたそぅです。流し始めて一定の時間経過後、各島々に漂流した樽を集めて数を数えて、数の多さでそれぞれの島の管轄藩と決定したとの事。
嘘くさい話しにも聞こえますが、市の要職におられます収入役さんのお話ですので、戦いに明け暮れた戦国の世から平和な江戸時代へと移行しまして、各藩の管轄地を明確にしようと言う幕府の意向は、納得出来るようにも思えます。
当時としては、この管轄の藩を決定する為の公正な手段として、各地から樽を流す方法は、大変民主的な方法であったのかも…
地図帳を広げて、よくよく見てみますと、私には分かりませんが見る人が見れば、潮の流れにそって県境が定まっているとの事。そぅ言われますと、そぅかも知れない…と納得出来ますから妙なものです。
各島々の県境は、樽流しの平和的方法で決定されたとは知りませんでしたが、想いを江戸時代に向けますと、当時が偲ばれ感慨深い気持ちになってしまいます。
瀬戸内の島々を眺めてみますと、入り組んだ県境も存在しますが、全体的に見ますと比較的公平なような気もしますので、樽流しは良い方法だったのかも分かりませんネ…
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