金
心寺の由来
如意山金心寺は、668年に唐から帰国した藤原鎌足の子定慧(643〜665)の開山による名刹である。伝えられるところでは、定慧の兄であり、当地を
所
領としていた有間皇子の菩提を弔うために建立されたとされる。
三
田の名の由来
1932年(昭和七年)の文部省による調査で、池に投げ込まれて難を避けたとされる金心寺の弥勒菩薩像の胎内からが発見されたが、こういう例は決して稀
ではない。
そこには『当地を松山の庄と号す。これを金心寺三福田の三田を以って三田と改む。』とあった。まさしくそれは、『三田』という地名の由来を説いた墨書で
あったのだ。この『三福田』とは仏教用語であり、恩田、悲田、敬田の三田を指している。
広辞苑によると、それぞれ、『恩田』とは『父母や師匠・年長者につかえてその恩に報いれば福徳を得るということを、田になぞらえていう語』、『悲田』と
は『苦難・貧窮の境界。これを悲しみ恵み施せば福果を得るからいう』<奈良時代に光明皇后(701〜760、聖武天皇皇后)が悲田院と施薬院を平城
京に設置したことは歴史の教科書にも出ている筈>とされている。『敬田』は残念ながら広辞苑には見当たらないが、これは『きょうでん』とも読み、
仏・法・僧の、所謂三宝を敬えという教えである。
三田の由来が『三福田』とは、何とも福々しいお話ではある。しかし残念ながら、これは後世に作られた話であるようだ。
三
田城
九鬼久隆が三田に安堵して従来の車瀬城の他に現在の三田小学校を城館の中
心として構築したものである。
この三田城の特徴とするものにいろいろあるであろうが先ず三つあげて
見たい。その一つは大池(御地)を利用していることである。
この水を利用して樅ケ崎より北側に濠を掘り南側と北側に濠をめぐらし
た。城に濠のあるのは当然であるが常にこの池に舟艇を浮べて水練を励んだであろうことが察知せられる。
このようなことの記録は見たことがないが極秘のうちに舟艇操縦の練磨
を続けていたであろうと思われる。かっては日本水軍の雄としてその名を天下にとどろかした九鬼水軍である。たとえ草深い摂丹境に移封されても祖先の名を恥
かしめず事あれは海上に出て勇をふるうべき気魄の身に迫るものを感ずるのである。
その二は大手門を出て桜の馬場をつき走れば三田川につきあたる。この
小冊子の巻末の図絵を参照せられたいが三田川はここばかりは特に川巾を広くしてこの意味において水練をやったところであろう。
延宝の三田図絵には「舟小屋」の位置が明記してある。この「舟小屋」
については上流の木材薪炭を運んだ舟もあり又、明治六年には篠山糯ケ坪から十五石船が通うたこともあってそれらの舟とか舟子の宿泊にも利用したことであろ
うが、九鬼水軍の名のために心ある頭初の藩公の奥ゆかしい心遣いをわすれてはならない。なほ「常に水軍のことを忘れなかった」ということを証明するのに別
府、二見あたりに九鬼の舟艇の訓練所があったとさえ伝えられている。
志州鳥羽城(九鬼嘉隆)の大手が海に面していることが特異なものとし
て城郭史にとりあげられている。大手をつっ走れば海である。そこには舟艇がいつでも用意されている。出陣に時を移さなかったといわれている。
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URL:http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandajou/sandajou.html よりの転載です(^-^; ---
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いずれも金心寺の境内の景観です(^.-)☆
(中)
かっての三田城のお堀りの跡です (右)これは何の碑でしたか…文字がはっきり読めなくて分かりません(^-^;
(左)
大池<御池>です (右)三田小学校校庭の一角に“三田城跡”の表示板が…
(左)
三田小学校校庭の一角に“史跡・三田城跡”の碑が… (右)三田小学校の校門です
(左)
この辺り一帯に三田城の城郭が存在しましたのでしょうねぇ〜
(中)(右)神戸電鉄三田線“横山駅”近くの三田市立図書館近隣の景観です
(^.-)☆
(左)
神戸電鉄三田線“横山駅”です (中)ここが三田学園の入口なんでしょうねぇ〜 (右)神戸電鉄三田線“横山駅”構内で