福井県・小浜市 小浜公園 <2/3> |
佐久間勉艇長
明治12(1879年)9月、三方町で生まれました。
明治30年(1897年)、小浜中学校(現在の若狭高校)を卒業しましたが、海軍兵学校に入学後も母校のためにボートの設計図などを贈っています。その後海軍大尉となり、明治43年4月15日、山口県・新湊沖で、艇長として乗組んだ潜水艇が潜航訓練中に故障のため遭難、全員が殉職しました。殉職した艇長の胸ポケットには、事故の状況を克明に記録した手帳がありました。その冷静で勇気ある行動が大きな感動を呼びました。
〔顕彰〕海望山(小浜公園)に銅像があります。
(左)佐久間勉艦長の案内板です(^.-)☆
(中)佐久間陸軍大尉の碑です(^.-)☆ (右)上田三平先生の案内板です
上田三平
上田三平は、明治14年(1881)3月小浜市羽賀に生れました。明治37年福井師範を卒業し小浜高等小学校、福井師範附属小学校に勤務。さらに文検地理科に合格して福井師範学校の教論となりました。
大正3年、県の委嘱によって内藤湖南博士の県内史跡調査に随行。大正6年福井県史跡勝地常任委員を命ぜられ「越前若狭地方の史蹟」を刊行しました。
大正10年には石川県史蹟名勝天然記念物調査、大正13年には奈良県史蹟名勝天然記念物調査に従事し、平城宮址の発掘調査、宮山古墳調査、法隆寺の出土瓦の研究などを行いました。
昭和2年には内務省の史蹟調査を嘱託され、『日本薬園史の研究』を刊行大成しました。
小浜市その他県内に国宝、重要文化財、天然記念物、史跡の指定の多いのは氏の功績であります。昭和23年69才で横浜で死去されました。
(中)(右)山川登美子女史の案内板と石碑(歌碑)です(^.-)☆ 『 幾ひろの波は帆を越す雲に笑み北国人と歌はれにけり 』
山川登美子
明治12年(1879年)7月、現在の千種一丁目旧小浜藩士山川家に生まれました。
大阪・梅花女学校に学ぶころから与謝野鉄幹に師事し雑誌「明星」に投稿。大阪の鳳晶(のちの与謝野晶子)とは良きライバルとなり、増田雅子とともに歌集「恋衣」を出版しています。
「我が息を芙蓉の風に例へますな十三弦を一息に切る」など熱い胸中を詠み明治を代表する女流歌人になりましたが、結核を患い、明治42年4月小浜で29歳の生涯を閉じました。病床で詠んだ短歌は歌集にまとめられています。
〔顕彰〕発心寺に墓碑があります。歌碑:小浜公園入口付近・小浜公園海望山中腹
(右)佐久間艦長の石碑です(^.-)☆
展望台から若狭湾・小浜市内の景観を撮りましたものです(^-^)/
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