群馬県 沼田市 <1/8> |
沼田市
沼田市は、群馬県の北部に位置し、県境の谷川連峰や三国山脈に近く、赤城山や武尊山など日本百名山に挙げられる山々に四方を囲まれた、東西11.89km、南北23.95kmと南北に細長く、標高は、250mから2,000m余に及ぶ起伏に富んだ地形で、総面積136.31km2、人口約47,500人の沼田盆地に位置する自然豊かなまちです。市街地は、市域を南北に貫流する利根川とその支流の片品川・薄根川により形成された日本一の河岸段丘上に広がっています。
古くは、天文元年(1532年)に沼田氏が居城して以来、明治に至る300有余年の間、真田・本多・黒田・土岐氏の城下町として栄えました。明治以後、北毛の交通の要衝として、また、利根沼田圏域の商業の中心として開け、大正13年(1924年)の上越線の開通とともに、農林産物の集散地として一層の発展を見ました。戦後は、森林資源を背景に木材関係の工場が多くなり、次第に産業の基盤を整えてきました。昭和29年4月、沼田町を中心に利南村、池田村、薄根村、川田村の1町4か村が合併して市制が施行されました。
市制施行後も、モータリゼーションに対応する三国トンネル、金精峠、志賀高原ルートなどの開通、さらには昭和57年の上越新幹線、昭和60年の関越自動車道新潟線の開通により、本市は交通の要衝として、ますます重要な役割を占めるようになりました。
そして現在は、利根沼田広域市町村圏(昭和44年9月指定)の中で、行政、商業、情報その他の生活サービス機能の集積する中核都市として、また、首都圏近郊の観光リゾート地としての役割を担っています。
また、姉妹都市として、静岡県下田市(昭和41年5月提携)及びドイツ連邦共和国バイエルン州フュッセン市(平成7年9月提携)と交流を行っています。
沼田城
一家一門の繁栄と発展を願い、北上州の一角に難攻の堅城を築城した武将当人がその一方で一家滅亡のきっかけを作るという皮肉な役割を演じてしまったのは沼田城を築城した、万鬼斎(まんきさ)・沼田顕泰(ぬまたあきやす)であった。
沼田城は、享禄2年(1529)、万鬼斎によって工を起こされ、3年後の天文2年(1532)に完成、古くは蔵内城ともよばれた城である。
永禄9年(1566)、万鬼斎はこの沼田城を三男・弥七朗朝憲(やしちろうとものり)にゆずり、おのれは側室の湯のみと共に沼田の東、川場村の天神の館に隠退した。
湯のみという側室は、万鬼斎がかつて湯治場で見染めた追貝村の金子某の娘だが、万鬼斎はこの美貌の側室を愛し、ほとんど溺愛というのに近かった。問題なのは、万鬼斎と湯のみの間に、平八郎景義(へいはちろうかげよし)なる末子がいたことだ。
しかも万鬼斎は、湯のみの兄の金子新左衛門なるものを取り立てて、譜代の重臣・和田掃部介(わだかもんのすけ)と同役に据え、金子美濃守泰清と名乗らせたのが事態をいちだんと悪くさせることになった。
湯のみと美濃守の兄妹が共謀し、末子の平八郎景義を、当主の弥七朗朝憲にかえて城主に据えようと企てるにいたった。
彼ら兄妹は、まず城主・弥七朗朝憲の夫人と重臣の和田掃部介が、不義密通しているという虚報をばらまくいっぽう、万鬼斎が激怒するよう、たくみに働きかけた。
案の定、怒った万鬼斎は掃部介を川場村に呼びつけ、これを斬り捨てようと計った。
いち早くそれを察した掃部介は、川場村に赴くいって城を出て、それきり行方をくらました。
主家の前途に絶望した彼は、高野山に入ってしまった。
じゃまな掃部介を追い出した湯のみ・美濃守兄妹は、つづいて策をめぐらし、あろうことか城主の弥七朗朝憲を謀殺した。
これで兄妹の計画は思うように成功し、末子の平八郎景義が城主の座につけるかに思われた。
ところが、事態は思わぬ方向に発展した。城主横死の報が伝わるや、正室・御曲輪ノ御前はじめ一族郎党が結集し、万鬼斎や兄妹のいる川場村に襲撃する様相をみせた。
色を失った万鬼斎は、湯のみと平八朗景義を伴い、隣国会津の城主・芦名盛重を頼って落ち延びていった。これが永禄12年正月のことで、途中、積雪の中に湯のみは病死し万鬼斎も会津にたどり着きはしたものの、ほどなく病死した。ひとり若い平八郎景義は、東上州にとどまり金山城主・由良国繁一族のもとに身をひそめ、またの再起をはかることにした。
城主を失った沼田城は、このときから越後の上杉、小田原の北条と支配をかえ、その北条も甲斐の武田に取って代わられるいう激しい変遷を続けた。
武田の臣・真田昌幸が沼田城に突入したのは天正8年(1580)だが、2年後の天正10年3月、武田勝頼が信長と戦って敗死すると、真田にかわって信長の臣滝川一益が入城した。ところがわずか2ヶ月ほどで本能寺の変が突発、信長が横死するとまたまた真田氏の支配に帰するいうめまぐるしさであった。
しかも、信長の死によって戦国地図は急速に塗りかえられようとした。
すでに謙信や信玄は亡く、信長が消えたとすれば、北条がこれを見過ごすはずはない。好機到来とばかりに、ふたたび沼田城攻略に取りかかったが名だたる堅城、どうしても落城させることができない。
おりしも、信長のあとを受け、天下統一を目前とした秀吉は、天下の諸大名に上洛の命をふれ出していたが、北条氏はこれを利用し、上洛の交換条件として、沼田の地を与えられたいと願い出た。その結果、城は北条氏の所有となったが、北条氏の沼田城代・猪俣範直が真田の名胡桃城を奪取した勇み足が、秀吉の小田原征伐の導火線となり、北条氏は早雲以来の命脈を絶つ。
こうして、三度沼田城は真田氏のものとなり、慶長元年(1596)城主真田信幸(信之)の手によって、5層の天守が築造され、その威容は霞城の異名をもって天下に知られたが、4代後の信澄の時世、所領没収、出羽山県の奥平家おあずけの身になり、その際、城は
跡形もなく破却された。
再建されたのは元禄16年(1703)年、本多氏が入封してからであり、本多氏3代ののち黒田氏が2代、さらに土岐氏にかわって、12代目に明治維新を迎えるという長い変転の歴史であった。
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