2022/08/16(火) 福山市草戸町「中山城跡」を散策(^.-)☆ <1/4> |
■2022年08月20日18:21
8/16(火)は、福山市草戸町「中山城跡」を散策でした(^.-)☆
連日の猛暑で、山歩きも気乗りしない中、8/16(火)は、近場の福山市草戸町『中山城跡』を散策のGONsanでありました(^.-)☆
◆備後 中山城(福山市)
築城年代は定かではないが室町時代に渡辺氏によって築かれたと云われ、渡辺氏の一族が城主であった。
中山城は、芦田川に沿って延びる丘陵の先端を掘切によって区切って独立されたもので、山頂の本丸を中心に帯郭と小郭を配置した小規模なものである。 山頂部分には大きな岩があり一段下がった所に神社が建てられている。
我が家を出ましたのは、A.M.10:00少し前。草戸町ですから、スグに到着ですけど、車を駐めます場所がありますかどぅか…
こんな危惧も不要で、中山城跡上り口付近に空き地がありましたので、ここに無断駐車となりました。
この空き地に隣接し、「福山沼隈道路」の工事現場が…
福山市のホームページに、こんな記載がありました。
◆第10回 工事が進んでいます!〜福山沼隈道路〜
--- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/kansen/166588.html ---
今回(第10回)は、放射・環状型幹線道路網計画における事業化路線のうち、「福山沼隈道路」の整備状況についてお伝えします。
福山沼隈道路は、福山市中心部と市南西部との連絡を強化する役割を担う全延長が約4.5kmの道路で、広島県により整備が進められているところです。
起点が福山市草戸町四丁目、終点が福山市熊野町となっており、外環状線である福山道路と内環状線である鷹取奈良津線(県道22号)、鷹取本庄線を接続することでネットワークの強化が図られることとなります。
現在、芦田川周辺のエリアなどで工事が進んでいるところです。
芦田川周辺のエリアでは、福山沼隈道路の工事以外にも鷹取本庄線の整備も進んでいます。鷹取本庄線の整備状況については後半でお伝えします。
こちらが草戸大橋から西側を見た際の写真です。写真の左側を見ると芦田川の中にグレーの構造物がありますが、こちらが福山沼隈道路の側道の橋脚です。この橋脚の上部に橋げたをかけ、舗装などの工事を行うと、橋として完成します。
広島県によると、この橋は2022年(令和4年)3月の完成を目指しているとのことです。
橋が完成するまでにはもうしばらく時間がかかりますが、「長い期間工事しているな」と感じた方もおられるかもしれません。河川内の工事は陸上での工事と比べて完成までの期間が長くなってしまう事情があります。
出水期(しゅっすいき)と呼ばれる梅雨や台風の多い時期など河川が増水しやすい時期には、原則として河川内での工事を行わないこととされており、河川内の工事は出水期以外の期間で施工しなくてはならないことから、1年の中で工事ができる期間が限られています。
なぜ、そのようなルールになっているかというと、河川内での工事を行っている際に川が増水し、工事のヤードや資材などによって川の流れを阻害するおそれがあり、それによって災害を誘発してしまう可能性があるためです。
福山沼隈道路のように橋梁工事を行う場合、大規模な工事であることに加え、工事する期間が限られるなど様々な事情で完成までに時間がかかりますが、確実に工事を進めています。事業の進捗については、今後もお知らせしていきます。
いつでしたか、中国新聞朝刊紙上にも、この工事の件で、交通規制の案内が…
・交通規制(終日全面通行止め)について
「新しい草戸大橋」の開通前後において、堤防道路の盛土工事を行うため、令和4年9月から11月末にかけて段階的に堤防道路(芦田川両岸の市道)の交通規制(終日全面通行止め)が発生します。ご迷惑お掛けしますが、迂回のご協力をお願いいたします。
…との事でありました。
まぁそのような事はさて置きまして、中山城跡の真下にトンネルが建設されますようで、その工事が着々と進んでいますようであります(^.-)☆
この日は、多分、お盆休みなんでしょうネ。大変静かで、工事車両・人影はありませんでしたが。
とにかく、空き地に車を駐める事が出来まして、いよいよ散策開始です。
挿入していますGoogleMap≠フ、@〜Eの順番で散策し、最後に、帰路に「道祖神」に立ち寄りです(^-^)//"
中山城跡の北側の狭い市道をノンビリと上がって行きますと、左側斜面にコンクリート製の祠が…GoogleMap≠ノは、「長和・草戸新四国八十八ヶ所第14番常楽寺」と記載があります。祠の右傍らには、五輪塔も…
この祠の左側上の斜面にも祠か社と思われます建物がありますけど、蛇でも出そうで進むのはチト躊躇。スルーする事となりました(^-^;
引き続き直進して行きますと、前方に、近年まで居住しておられたようにも思われます廃墟が…
そして、道を挟んで、この廃墟の対面にも祠が…GoogleMap≠ノよりますと、「長和・草戸新四国八十八ヶ所第12番焼山寺」のようであります(^-^)/"
「長和・草戸新四国八十八ヶ所第12番焼山寺」を通り過ぎますと、スグに右手に階段上り口脇に『中山城跡入口』の案内標識が…結構新しいので、ここ近年に設置されましたのかも…
この案内標識脇には、「半坂妙見社」の案内板が…これには、こんな記載がありました。
◆草戸・川西歴史街道 散策路 <41> 半坂妙見社
--- 草戸の歴史を愛する会 ---
中山城跡ともいわれ、草戸山城の出城と考えられる。妙見大菩薩社(地図番号<31>)から分祀されたと考えられる。昭和中期に建て替えられた。建物内には北辰妙見大菩薩縁起(写真1の額)と絵馬(写真2)が懸けられている。絵馬は明治35年(1902年)作。
北辰とは北斗星・北極星の信仰に始まるもので、昔から太陽・月・星の運行を神秘的なものとし、仏教では妙見大菩薩と呼ばれ、国土安穏・五穀豊穣・除災招福、開運隆昌の守護神として信仰されてきた。妙見大菩薩は日蓮宗以外でも、真言宗・天台宗などに取り入れられている。
北極星の化身とされた妙見大菩薩は、北極星が常に北を指し旅人の指針として仰ぎ見られたことから、人生の道を導き開いてくれる開運の守護神として深く信仰された。
--- 2013年10月 この事業は、福山市協働のまちづくり資金を利用して実施しています ---
この石段を進めば「中山城跡(半坂妙見社)」に向かうのでしょうけど、後で上ることにしまして、まずは直進です。
すると、スグに、今度は「三十番神社」の案内板が…これには、こんな記載が…
◆草戸・川西歴史街道 散策路 <40> 三十番神社
--- 草戸の歴史を愛する会 ---
半坂鳥越の北側にあり、草戸内洲に祀ってあったものを寛文13年(1673年)に現在の位置に再建された(寛文13年は延宝元年)。
幼児に社前で相撲を取らせたといわれているが、これは相撲好みの文人・応来矣(おっしょきたり・地図番号<28>)本名小林文四郎の墓があることに由来すると考える。
手水鉢(ちょうずばち)の水ためが軍配団扇(うちわ)の形をしている。
常夜灯は文政2年(1819年)に建てられた。
神社は日蓮宗の檀家の墓が神社下側に並んでいる。神社建物の中には、三十番神の御神像があり、多くの絵馬が懸けられている(写真)。
--- 2013年10月 この事業は、福山市協働のまちづくり資金を利用して実施しています ---
この三十番神社も後で向かう事にしまして、引き続き直進です。
そうしますと、右側(山側)の斜面に石仏が…これは、GoogleMap≠ナ確認しますと、「長和・草戸新四国八十八ヶ所第16番観音寺」のようであります。どなたか、紫陽花の花を供えておられますけど造花かも(^-^)
そして、左側の芦田川方向に眼を向けますと、福山沼隈道路の工事現場が…ふ〜ん、ここに出て来ましたネ。
本来は、こちらから「三十番神社」「半坂妙見社」へとお詣りされますのでしょうねぇ〜
暫く工事現場に眼を向けておりますと、ご年配の男性が上がって来られました。
擦れ違いました後で、後方から見送っておりますと、この道は、この方にとりましては生活道なのかも…との、こんな想いも。
草戸大橋バス停で下車され、GONsanが車を駐めました方向のご自宅にと向かっておられますのかも…
徒歩ですと、このルートの方が随分近道となりますから…
芦田川の中州には、カワウ(川鵜)の皆さんが休憩中です。
芦田川、草戸大橋周辺の建設現場に暫し眼を向けておりましたけど、それでは引き返し、「三十番神社」に向かいます事に…
石段を上がりますと鳥居が…「番神社」と記載です。
鳥居を潜り、引き続き石段を上がって行きますと到着ですが、老朽により取り壊されましたのでしょうか…建物は、ありませんでしたネ。ただ、『三十番神社跡地』の石碑が…
広場の脇に説明番がありましたので、眼を通してみますと、
◆草戸・川西歴史街道 散策路 <40-1> 三十番神社
--- 草戸千軒ビレッジ ---
三十番とは、一ヶ月三十日、毎日交替で国家や法華経などを守る三十柱のご神体をいい、特に日蓮宗で熱心に信仰される。当三十番神社の起源は、法華一乗という刀鍛冶が草戸町川西地区に文禄の頃(1592〜1595)に住んでいたことに始まる。法音寺(草戸町1511番地)川下の地(草戸町1552番地)あたりの山間がその場所にあたる。江戸時代中期の1700年代初頭にかけて三十番神社の前身が同地に建立された。三十番神社の解体の時収集した軒平瓦の文様は、江戸時代前のものはなく、江戸初期から中期のものと、江戸時代後期から明治大正時代の瓦が混在している。当地三十番神社棟板に書かれていた寛文13年丁亥(1673年)は、元号と干支が合わず、後年推測して書かれたものと考える。番神社は常夜灯に刻まれた文政2年己卯(1819年)などより、江戸時代後期(1800年代初頭)に、度重なる洪水のため前地から当高台へ移設されたと考える。
平成28年(2016年)6月の大雨で、三十番神社の境内左側の斜面が崩れ基礎石が現れ、神社崩壊の危険性が出て来た。復旧は費用面で困難となり、平成29年(2017年)4月に取り壊し、跡に石碑を建てた。なお、ご神体と絵馬は妙顕寺(水呑町)に祀られている。
--- (文責 三谷千城) 2017年8月 協賛 一般財団法人 義倉 ---
…と、こんな記載がありましたけど、この「一般社団法人 義倉」sanとは、何なんでしょう?
で、WEB上で検索して見ましたら、こんな社団法人でありました。
◆一般財団法人「義倉」
--- https://giso.or.jp/ ---
・飢饉、一揆の救済のため、河相周兵衛が中心となって発足
河相周兵衛河相周兵衛像「義倉」は今を去る二百余年前、深津村庄屋石井武右衛門盈比(みつひら)の死に臨んで遺金銀六十貫目を千田村庄屋河相周兵衛に託された事に始まります。
周兵衛は当時の度重なる飢饉や荒れすさぶ農民一揆を目のあたりにして、この窮状を救う方途はないものかと熟慮すること8年、戸手村の庄屋信岡平六、福山豪商神野利右衛門、府中の義人大戸久三郎等の同志を糾合して銀三百貫を拠出、当時財政難に喘ぐ福山藩が石州銀山から借りていた借財およそ銀三百貫を肩代わりするのであります。
・飢饉に備える民間救済組織の誕生
義倉田碑見返りとして利息相当分の銀四十五貫目を15年間に限り下賜を受ける約束を取り付け、これを元手に農村の疲弊を救済するという骨子(救法目論見)を作成して、藩公より認可を得たのが文化元年(1804年)でありました。
爾来福山藩の庇護と協力のもとに、飢饉時には米や金を放出して困窮者を救助する一大救済組織を作ったのであります。
・活動の多角化
これら救済活動を行いつつ、「義倉」は一部の資金をさいて、著名図書の購入・医師育成のための助成・上方より著名人を招き儒学・神道・仏学の講釈を行う等の文化教育活動を展開しました。
これは他の義倉・社倉にはない大きな特徴の一つであります。
・戦後の混乱の中、活動方針を転換
昭和20年忌まわしい福山空襲で図書館をはじめ「義倉」諸施設一切が灰燼に帰し、続く昭和22年の農地改革により「義倉」の中心的財産であった百数十町歩の農地はその全部を失うこととなり、「義倉」は今後の方向を大きく転換せざるを得なくなりました。
昭和27年、荒廃した戦後にあって婦女子教育が最も重要な課題であるとして、「義倉女学園」を設立、人間完成のための文化教養の場として評価を戴いて参りましたが、時代の変遷とともに「義倉女子専門学校」もその使命を終えることとなります。
平成3年3月、開校以来約五千名になんなんとする卒業生を世に送り出し、かつ40年の長きにわたった学校の歴史は、惜しまれつつ静かに幕を閉じたのであります。
・寄付、助成の活動に専念
平成3年、学校の終焉を機に明治32年制定以来の寄附行為を改正して、時代に適応した方向に転換、「義倉」は小規模ながらも財団法人本来の寄付・助成の活動に専念することと致しました。
それ以降は福山市を中心に周辺町村の福祉・教育・殖産の三分野において、様々なボランティア活動への援助や、教育文化の向上及び地場産業推進・振興のための資金を拠出して寄付・助成活動を続けてゆくことを決意致しました。
昔日の「義倉」の活動とは比ぶべくもありませんが、現在は社会的に有意義と評価される団体を選考して助成金を交付する活動を続けております。
・一般財団法人へ改組
平成20年12月1日公益法人制度の改正がなされ財団法人「義倉」は平成24年4月1日から一般財団法人「義倉」として引き続き事業を実施することとなりました。
私共「義倉」関係者は、二百余年の昔、同志を糾合して世直しに情熱を注いだ「義倉」創設者の趣意をふまえ、ささやかながら福山市民の皆様に如何にしてお役にたち得るかを考え続けて行きたいと念じております。
…と、こんな永い歴史のあります財団法人のようであります。
神社の建物は、平成28年6月の豪雨で、神社崩壊の危険性が出て来た為、平成29年4月に取り壊されましたようですネ(^-^)//"
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