福岡県中間市 “屋根のない博物館” <1/3> |
中間市
--- 中間市役所ホームページより ---
この地は遠賀川による肥沃な遠賀平野が広がっています。古代から稲作が盛んな地域だったことが、弥生時代の農耕文化の伝わりの指標となった「遠賀川式土器」の名からも分かります。
また、古墳時代後期(5世紀末〜6世紀後半)には、現在の垣生(はぶ)公園にある垣生丘陵周辺に横穴式の群集墓が数多く作られました。これは「垣生羅漢百穴」として今に残っています。
室町時代には(現在の芦屋町山鹿を拠点として、八幡西区や遠賀郡、中間市、直方市などに所領を持つ)麻生氏と(現在の宗像市を拠点とし、遠賀川西部に勢力を伸ばす)宗像氏の両軍がにらみ合い、数度の合戦によっても決着がつかず、川西を宗像領、川東を麻生領に分割したことが古文書に書かれています。
江戸時代には福岡藩の所領になりました。遠賀川の度重なる氾濫を防ぐため、遠賀川堤防の改修と堀川の掘削が始められます。
明治末期から昭和初期には、この地で発見される石炭が国の重要なエネルギー源となり、炭坑のまちとして筑豊炭田の一翼を担います。石炭輸送には当初「川ひらた」と呼ばれる舟が遠賀川と堀川を下っていましたが、明治24年(1891)に筑豊本線、明治45年(1912)に香月線が開通すると、鉄道の大量輸送に押され、川ひらたは徐々に姿を消して行きました。人口も増え続け、明治末の4,800人から昭和34年(1959)には46,000人にまでなりました。現在は、48,658人のようですネ(^.-)☆
(左)JR鹿児島本線・車窓からスペースワールドを (中)(右)JR筑豊本線<福北ゆたか線>中間駅前の景観です(^.-)☆
(左)(右)いずれも中間駅前の景観です (中)駅前では“やっちゃれ市場”が開催されておりました(^-^)/
(中)中間駅前の大通りです (右)中間駅近くには“もやい通り”“屋根のない博物館”が…
屋根のない博物館
中間市に新しい観光名所を…と、平成元年(1989)につくられた緑道公園です。旧国鉄香月線の跡地を利用しています。
モアイ像やスフィンクスなど世界中の有名な石像のレプリカ30体余りを配した緑豊かな空間は、見る人に古代遺跡を訪れているような感覚を与えてくれることでしょう。
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