栃木県真岡市・茨城県下館市 <3/3>

茨 城県下館市

 下館市は、ほぼ関東平野の中央に位置し、野州(栃木県)二宮町久下田を起点として南に延びる舌状台地の突端にあり、日本書紀に所謂要害之地とある。
 この地方は、河川の流域地帯と台地の交錯する地点で古くからひらけ、常陸と下野(栃木県)を結ぶ交通軍事の要所でもあり、又、政治、経済、教育、文化の 中心であった。

 鬼怒川左岸台地をはじめ小貝、勤行、大谷の各河川台地には縄文、弥生の遺跡をはじめ数多くの出土品がみられ、又、古墳群も多く、徳持の葦間山古墳は新治 国造(ひならぶのみこと)の墳墓ともいわれている。

 「しもだて」の名が歴史上に登場してくるのは中世になってからであるが、古くは桓武天皇の天応元年(781)藤原魚名が奥州勢に備え三館(上館「本 館」、中館、下館)を築いたといわれている。天慶3年(940)の平将門の乱のとき、下野より起った藤原秀郷が下館に拠り追討の軍を進めたという。

 時代は下って天永2年(1111)藤原実宗が常陸介となり、伊佐荘中村(下館市中館)に住み伊佐氏を名のり、子孫の朝宗が伊達氏の祖となった。子孫は鎌 倉時代の御家人となり、伊佐城(館)を中心にこの地方に勢力を張った。
 南北朝時代の興国4年(1343)一族の伊達行朝は南朝に組し足利尊氏と戦い落城し、以来廃城となった。

 文明10年(1478)陸奥国岩城水谷(福島県いわき市水野谷)から出た水谷勝氏が結城氏広(結城14代)より独立、領地3,500余町と家臣280人 をもって下館城主となった。
 以来8代勝隆が備中成羽(岡山県成羽町)へ移封されるまで160年間、下館の戦国大名として領内経営にあたり、下館の今日の基礎をつくった。(水谷家譜 は、それ以前からである。)

 水谷移封後は、松平頼重(水戸徳川頼房の子)が在城3年、讃岐高松へ移封後22年間の在番時代から、増山氏40年、黒田氏 30年を経て、享保17年(1732)石川近江守総茂が伊勢国河曲郡神戸(三重県鈴鹿市)より入封、9代総管にいたり明治維新をむかえた。

 明治17年の自由民権運動には自由党員の決起があり、加波山事件発端の地でもある。一方文化面では江戸に比較的近い位置にあるため、文人、墨客の来遊が みられ、なかでも俳人与謝蕪村が多感な青春時代を、約10年にわたりこの地方を中心に修行している。又、陶芸界の巨匠板谷波山も下館に生まれている。

 昭和29年3月下館町外近隣7カ村を合併し市制施行、現在の市勢は面積86.25ku、人口65,904人(平成10年6月現在)県西の雄都として益々 発 展しようとしている。

   

(左) (右)いずれも、真岡郵便局方向から真岡駅を撮りましたものです(^.-)☆

 

(左) (右)いずれも真岡駅です 東西両面から撮りました(^_^)v

  

(左) 真岡駅前の景観です (中)列車の待ち時間を利用しまして駅構内のポスターを(^-^)/ (右)真岡鉄道のチケットです

  

(左) 下館に向かいます列車内で (中)下館駅に到着時に乗って来ました列車を (右)下館駅前の景観です

  

(左)(中)いずれも列車の待ち時 間を利用しまして下館駅前の景観を (右)下館駅です(^-^)/

  

(左) (中)いずれも下館駅前の景観です(^.-)☆

  

私が ヒマなものですから、こぅして写真を撮っておりましたら、同じようにお二人の男性が駅前の写真を撮っておられます(^.-)☆
カメラの方向に視線を向けますが、何を撮っておられるのか分かりません(^-^;
で、尋ねてみますと、市制50周年記念の『市制史』作成のための駅前を撮影との事でありました(^.-)☆

 

(左) 今から58年程度昔に大洪水で、この写真のように下館駅前は大変だったようです
(右)それで、この写真と同じアングルで、同じ場所を撮っておられるとの事 でありました(^.-)☆
左の当時の写真は大変貴重なものなんだそうですよ(^_^)v

  

(左) (中)(右)いずれも、小山に向かいます列車待ちで、充分な時間を利用しまして下館駅構内を撮りましたものです(^-^)/

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