福岡県 久留米市 <10/12>

  

(左)(中)(右)百年公園近くの“ゆめタウン久留米”周辺の景観です(^.-)☆

   

(左)JR久留米駅前の“からくり太鼓時計”です(^.-)☆ もぅ5分待てば見る事が出来たのですけど(^-^;
(右)JR久留米駅から“水宮寺”への途中に存在します“西岸寺”です(^.-)☆

  

(左)JR久留米駅から“水宮寺”への途中に存在します“西岸寺”です(^.-)☆ (中)(右)水宮寺です

水天宮

 水天宮は全国水天宮の総本宮です。

 創建は、建久年間(1190〜99)と伝えられ、平家が壇ノ浦の戦いで破れた後、官女按擦使局が筑後川の辺り鷺野ケ原に逃れ来て初めて水天宮り濳ったもので、後、慶安3年(1650)2代藩主有馬忠頼公の時、筑後川に臨む現在地になりました。

 水にゆかりの社として海運守護神となり河童伝説との結びつきも伝えられ、信心を集めました。今は安産の神様として知られています。また、勤王の志士として後世に名を残した真木和泉はこの水天宮の神官でした。境内には、彼の銅像と幽居した「R梔窩」の摸式家屋があります。

 5月5日より7日まで開催される水天宮・春大祭は、安産・水難避け・子供の守護神の祭として多くの氏子や参拝客で賑わい、初夏の訪れを感じさせます。

  

(右)真木神社です(^.-)☆

  

   

(左)(右)幕末の尊王攘夷運動の指導的志士・真木和泉の像

真木和泉

 筑後国(福岡県)久留米瀬下町に生まれる。水天宮祠官、久留米藩中小姓格。幕末の尊王攘夷運動の指導的志士。
 父は水天宮祠官真木左門旋臣、母は中村平次の女柳子、長男。文政6(1823)年父の死により家督相続、久留米藩中小姓格に列し、水天宮祠官となる。

 天保3(1832)年閏11月京都で従五位下に叙任、大宮司真木和泉朝臣保臣と称した。

 弘化元(1844)年尊攘を唱える後期水戸学に心酔、江戸に出て7月同学の大成者会沢正志斎に面会し影響を受け、また安井息軒、塩谷宕陰、橘守部らと往来した。9月久留米に帰り、木村三郎、村上守太郎らと水戸学(天保学)の影響下にある天保学連の中心となり同3(1846)年3月藩主有馬頼永に藩政改革意見を上書した。

 同4(1847)年9月孝明天皇の即位式拝観のため上洛し三条実万、東坊城聡長、野宮定功ら公卿、小林良典ら堂上諸大夫の知遇、面識を得た。

 嘉永5(1852)年稲次因幡、木村三郎らと執政有馬監物らを排斥しようとする藩政の改革を企てるが失敗、嘉永の獄で5月「三里構い」となって下妻郡水田村(筑後市大字水田)の実弟大鳥居啓太の家に蟄居を命ぜられた。

 以後11年におよぶ幽閉中、開国の進展に応じて諸国の尊攘志士と交流し公家に建策、文久元(1861)年「義挙三策」を著し王政復古を説いた。

 同(1861)年12月平野国臣、清河八郎らと会議し、翌2(1862)年2月脱藩して鹿児島に脱出し、大久保利通、有馬新七らと島津久光の上京をはかった。4月大坂で田中河内介らと挙兵をはかったが、寺田屋の変で挫折、捕らえられて7月久留米に護送幽閉された。

 同3(1863)年1月朝廷の沙汰により赦免。4月藩是を尊攘一途とすべきことを藩主慶頼に建言、親兵頭取となったが、保守佐幕派の反撃である「和泉捕り」により同4月に拘禁。5月公卿中山忠光、長州藩関係者の奔走で釈放。長州へおもむき毛利敬親父子に謁見して攘夷親征、討幕を説き、6月上京し学習院御用掛となった。8月18日の政変後攘夷親征、大和行幸計画に従って三条実美らとともに長州に下る。10月「出師三策」を著して軍事力による朝廷奪回を主張。

 元治1(1864)年7月の禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加、7月19日、堺町御門を目指して進軍したが、福井藩兵などに阻まれて敗北、天王山に退却、長州へ敗走することを拒否して7月21日、同志16名ととも に自刃。年52。

 辞世「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」。

 天王山での十七志士との最後の宴の図が維新資料に含まれている。また、その最後の宴において使用したと伝えられる大きな鍋も資料の中に含まれている。

  

  

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →