広島県府中市 首無地蔵菩薩
 広島県府中市 首無地蔵菩薩
 
 ■首無地蔵(くびなしじぞう)
 備後の国、広島県東部の府中市出口(でぐち)町の小高い丘に祀(まつ)られている首から上が欠けた石のお地蔵様です。
 
 ◆宗教法人 首無地蔵菩薩
  
  所在地:〒726-0032広島県府中市出口町250番地
  電 話:0847(43)5732
  インターネット URL:http://www.fuchu.or.jp/~jizo
 
  ご質問・ご意見等は、宗務所又は次のアドレスへ“メール”でどうぞ。E-mail:jizo@mpa.fuchu.jp
 
 ■首無地蔵の発掘
  
 昭和52年5月18日の未明、府中市出口町の信仰深き老人(A氏)の夢枕に、お地蔵様が立たれ、「今、地中に埋まっているが、掘り起こして祀ってくれ。願いごとは何でもかなえてやる。」とのお告げがあった。
 
 老人が夢を見たのが朝の3時頃であり、大人の背丈で、絵に描いてあるような坊主頭の美しい姿であったという。老人は4時30分に起床し、いつもの如く、八ツ尾山(標高345.9m)の南麓の裾の洞仙の丘の畑の耕作に出かけた。単車で勢い良く急坂を登り、畑の入口には不要になった石垣用の一抱えもある石が十数個積み上げてあった。その石に乗り上げ、空中一回転して、単車もろともに畑にたたきつけられた。老人は、トラックの運転免許をもっており、かつては要人の乗用車の運転手をしていたこともあり、単車でへまをするような腕前ではない。その朝に限って、磁石で引きつけられるように、積石の方に向かったという。幸い体に傷を負うこともなく、単車もどこも傷んでいなかった。
 
 入口に石があっては、今後も危ないと思い、梃子(テコ)で石を起こし、転がして3〜4m離れた農道まで運んだ。その時、軽々と運べたので、70歳近く(当時69)になって、こんなにまだ力が残っていたのかと不思議に思われた。その翌日、もう少し退かさないと危ないと思い、石を持ったが力一杯出さなければ動かず普通の重量感であったという。積石の底に地蔵石が埋まっていたのであるが、地蔵が地上に出現されんがために不思議な力が働いたとしか言いようのない出来事であった。
 
 一番底にあった石は加工したと見え、四角く、恰好が良く、何かに使えそうなので、別の所に置いていた。一段落したので一服し、タバコを吸いながらその石を何に使おうかと考えていた。
 
 その中、朝日が登ってきた。長年底にあったため、湿っていた石の表面が乾いて来て、よく見ると法衣の線刻が浮き出ていた。その時、朝方の夢を思い出した。この石は普通の石ではなく、地蔵さんであろうと思い、正夢であったのかと愕然とされた。
 
 地蔵石をそのまま農道に置き、一度家に帰り、妻と共に新しいタワシ・バケツを持って再び丘に上がった。ちょうど、八ツ尾山の麓を巡って、出口川から引き入れた農業用水路が畑のほとりを通っていた。その水で地蔵石を丁寧に洗い、お粗末にならないように、そっと農道に横たえていた。この時点でお地蔵さんを祀る気持ちはまだなかった。
 
 翌朝、畑に来て見ると、石地蔵は立てかけてあった。散歩をしていた老人が「地蔵は転がしておくものではない」と言って立てかけたとのことである。近所の地主の老人(B氏)らしかった。石地蔵の足の方は欠けて不安定であり、石のかけらを詰めて安定を保っていた。同じく近所の老人(C氏)が、散歩がてらに犬を3匹連れて通りかかり、「拝んでもらいなさい」と忠告した。
 
 そこで山の下手の胡町に住む、お大師を祭祀している中年の夫人に頼み、初めてお経を上げてもらった。昭和52年5月20日第1回目のお祭りであった。小豆めしを炊いて供え、すぐ上手の淡島明神の信者たち10名前後の年寄りが参列した。
 
 祭祀に先立ち、地主(D家)の了解を得る必要があった。地主は岡山県阿哲郡大佐町の金比羅院に帰依しておられ、院の管長にお伺いを立てられた。管長(E師)は、真言宗派に属し東洋大学、立正大学の教授でもあり、国際アカデミー賞も受賞されたことのある碩学(セキガク)であった。4歳くらいの時から霊能力を備え、千里眼の持ち主でもあった。讃岐の金比羅宮より金の御幣をいただき、大佐町にて金比羅権現を祀っておられる。
 
 相談を受けた地主は、悪い神なら高天原に帰ってもらうつもりで、金比羅院に電話した。「拝むのはよろしいが、そのままにして、ゲシの方に置いておくがよい。後から返事する」とのことであった。地蔵を掘り出した老人の妻は信仰家であった。妻も自分の家の台所の壁に映った地蔵の姿を見ておられる。これは夢ではなく、目覚めていたときである。美しい女性のような、えも言われぬ神々しさであったという。現在地蔵会館の床の間に、観音の掛軸を飾ってあるが、その観音様を正面に向けた場合とそっくりの姿であったといわれる。
 
 妻は、1人でも多くの人が地蔵さんのおかげを受けて、ニコニコと笑顔のある明るい毎日を送ってもらいたいと、『ニコニコ地蔵』と名付けておられた。
 昭和52年6月、金比羅芦品講社が栄明寺で開かれ、E師が来られた。「その地蔵は『首無地蔵』と命名したがよい。苔打ち症であろうと、腰痛、足痛など何でも直してくださる」と言われた。地主の主婦は、赤い布を求め小さな幟(のぼり)を作り、出口町の書道家山脇氏が『首無地蔵』と墨書して、石地蔵のそばに立てた。
 
 首無地蔵の噂はまたたく間に近所に伝わり、高血圧の老婆が日参3〜4日にして平常に戻り、リューマチで脛の曲がらなかった年寄りが、10日目には杖を捨てて平気で坂道を上下するようになるなど、毎月、月例祭を行うごとに不思議な現象が数多く出始めた。老人が首無地蔵を掘り起こすまでに、様々な奇跡が生じている。
 
 昭和52年5月より3年前のこと、老人はつまづき倒れて足をひどく打った。その後すねに水が溜まり始めた。脛が腫れてきたので、外科病院に行った。レントゲン診断の結果、切らねばならぬと宣告された。切るのが嫌なので、懇意な病院に入院した。40日間の入院中、水が溜まれば注射針で水を抜いた。水が溜まると痛くて歩けない。
 40日経って多少よくなったので通院を始めた。その頃、老人と友人の西町のF氏が尋ねて来た。F氏は四国霊場巡りの先達であり、笠岡市沖のミニ88ケ所神島巡拝を薦めた。巡礼は初めてであり、しかもこう足が悪くては、とうてい山や谷などついて廻れないと尻込みすると「そういうことでは足は治らぬ。神島の土地を踏むだけでよい」と友人は叱咤激励した。
 
 老人は友人に励まされ、ようやくその気になり、昭和52年3月初め、心配した妻も同行し、神島巡礼に旅立った。
 笠岡港から渡し船で神島へ渡った。神島88ケ所は10里前後2日間の行程であり、野の石地蔵が多く、お寺のある所は3ヶ所とのことである。
 
 信仰に関心のなかった老人は、白衣を着るでなく、数珠のみを持ち、ビニール靴を履き普通の背広姿であった。霊場に一歩足を踏み入れると、気持ちはしゃんとした。「南無大師遍照金剛」を懸命に唱えつつ、皆に遅れないよう、足を引きずりながら杖をたよりに巡礼した。その夜は「周兵衛庵」に1泊した。かなりくたびれた感じであった。
 2日目の夕方巡礼を終えて帰宅した。翌朝足の痛みが止っているのに気付いた。F氏が心配して、早速尋ねて来た。その時初めて足に触って見ると痛くも何ともない。くたびれも出ていなかった。普通であれば、悪い足で2日間の強行軍の後は、悪化するのが常識であるが却って良くなっている。
 
 初めて老人に信仰心が湧然と芽生えてきた。足を医者に診てもらうと良くなっているという。しばらく注射を打ちに通っていたが、20日間くらいで、足についての医者通いは打ち切った。
 
 神島巡礼を終えて間もなく、3月244日、府中市を出発して、13日間の四国88か所巡りを行った。この時は足の癒えたお礼の気持ちも込めて、白ズボン、数珠、金剛杖の白装束姿であった。完全に巡礼になりきっていた。この時もF氏が先達で、40〜50名の団体であった。老人はまだお経は知らず、般若心経を覚えたのは後のことである。
 
 四国巡りは人より良く歩いた。先頭に立ってすたすた歩いた。足の痛みは完全に消えていた。
 四国巡礼を終えて帰ってから10日余り後の5月18日の早朝、老人の夢枕にお地蔵様が立たれたのである。老人が作っている畑の中に埋れているお地蔵が、衆生済度を発願(ほつがん)され、老人の手を通じて地上に現われたまうたとしか言いようのない出来事であった。
--- 宗教法人 首無地蔵菩薩 ホームページより転載 ---

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

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