山梨県“甲府
市”・静岡県“富士
宮市”“富士市”“静岡市” <10/13> |
駿
府城跡(駿府公園)
徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、隠居地として駿府を定めました。慶長12(1607)年、家康は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西に
は5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させました。
家康在城時の駿府の町は、江戸と共にいわば2元政治が行われていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄していました。家康の死後、城主となった忠
長が改易されると駿府城は城代の管理となります。寛永12(1635)年の火災により天守等の殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されますが天守は
再建されませんでした。以後江戸時代の駿府城は、建物の規模も次第に縮小していくこととなります。
明治時代になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となりました。戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園とし
て整備され、巽櫓、東御門の復元もされ一般に公開されています。
(左)
JR静岡駅北口の景観です (中)(右)静岡での宿泊を利用し夕方は駿府公園<駿府城跡>を散策でした(^.-)☆
(右)十返舎一九の
「東海道中膝栗毛」の記念碑が…
十
返舎一九
「東海道中膝栗毛」は、江戸後期の享和ニ年(1802)に出版された滑稽本で、ひょうきんな弥次郎兵衛と喜多八が江戸品川を振り出しに東海道を下り、伊
勢参りをすませ、京大阪を見物するという道中もので、大ベストセラーとなった。これは、この時代に各地に寺子屋ができ庶民も文字を読めるようになった影響
である。
黄表紙や滑稽本などの出版が相次ぎ貸本屋が繁盛する時代でもあった。
こんな中、十返舎一九は武家社会の儒教的な道徳観念を笑い飛ばすかのように、自由で愚かで下品な主人公をつくりあげた。その内容も飯盛り女という旅人相
手の女郎買いや夜這いの話で会話の多くは、卑猥である。人々は、弥次と喜多の馬鹿げたふるまいにカタルシスを感じ共感したのである。
これは、少年少女時代に読んだ弥次喜多道中とは違った内容であり、戸惑う向きもあろうが、この破天荒な主人公の物語を理屈抜きで楽しんでいただきたい。
戯作者十返舎一九は駿河国の府中(静岡市)で、同心の家に生れた。
父は重田幾八、母はこうといわれている。また旗本小田切土佐守直年の庶子ともいわれている。
この重田一族の墓が今も静岡市砥屋町の医王山顕光院にあって、ご子孫が守っている。
また十返舎一九は、天保ニ年八月七日没した。享年六十九歳、東京都中央区の東陽院に静かに眠っている。