2022/05/08(日) 津之郷町の「串山城跡・本谷砂留」を散策(^.-)☆ <3/5>

 

 

 

 

 

 ノンビリと下りて来ましたけど、下りでもありますしアッと言う間に鳥居まで(^-^)
 そして、三叉路を左右どちらでもイィのでしょうけど、往路と同じ石段へ右折です。ほどなく前方に山陽自動車道が…

 

 

 

 

 

 串山城跡登り口まで下りて来ますと、ついでに、「さこたはし」を渡って向こう側に行ってみましょうか…
 山陽自動車道に眼を向けながら渡りきりますと、チョッとした広場の先に石段が…石段の先には何があるのか分かりませんけど、ヒマですし上がってみます事に…
 石段を上がりきりますと「日本道路公団」と刻まれました石標が…ここから右に山道が続きます。
 ふ〜ん、特に何にもありませんで、この整備された石段は、日本道路公団所有地の管理道なんでしょうねぇ〜
 石段を下ります途中で山陽自動車道をパチリです。あのトンネルは、「赤坂トンネル」なんでしょうネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、せっかく近くまでヤッて来ましたので、「本谷砂留」まで足を延ばしてみたいと思います。
 1台の車がヤッと走行可能な道を「本谷砂留」に向かって走行ですけど、C級ライセンスのGONsan、上から車が下りて来ましたら、擦れ違いに難儀しました事でしょうねぇ〜幸いに、擦れ違いましたのは大型バイク1台のみで、助かりました(^_^)v
 到着しますと駐車可能なスペースがありましたので、早速、「本谷砂留」を散策です。
 ここには、こんな案内板が…

 ◆本谷砂留

 現存する石積砂留の本谷砂留は石塊段積(鎧積)堰堤の典型的砂留でアーチ状のものである。標高8.0m、幅38.0mで築造年代は江戸時代中期(およそ1700年代頃)(砂留史)と推定される。堰堤の強さを保つため袖石垣があるが、城の石垣の美しい曲線をもつ算木積技法が採用されて、この地方にだけ残る貴重な文化遺産である。
 天保年代(1830〜1844)に堂々川の砂留、俄谷の砂留など福山藩は、幹線山陽道に注ぐ河川に山陽道保護のため治山治水の砂留を積極的にすすめた記録がある。

 --- 津之郷学区まちづくり推進委員会 ---

 WEB上で「本谷砂留」を検索しますと、こんな記載もありました。

 ◆本谷砂留

 --- https://map.goo.ne.jp/place/AXRM7KHH/ ---

 本谷砂留(ほんたにすなどめ)は広島県福山市津之郷町にある江戸時代の石積砂防ダム。本谷川砂留(ほんたにがわすなどめ)とも呼ばれる。本谷川の砂防の目的で築かれた。現存する砂留は1基のみ。

 ◆本谷砂留

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 本谷砂留(ほんたにすなどめ)は広島県福山市津之郷町にある江戸時代の石積砂防ダム。本谷川砂留(ほんたにがわすなどめ)とも呼ばれる。本谷川の砂防の目的で築かれた。現存する砂留は1基のみ。

 ・概要
 江戸時代中期の1700年代頃に造られたと推定されている。石塊段積(鎧積)堰堤の典型的な砂留で、全体としてアーチ状に石積が組まれている。堰堤高は8.0メートル、堰堤長は38メートル。下段は花崗岩の大石を準成層布積にしており、上段は明治時代以降に嵩上げされた部分となる。堰堤の左右には、砂留の強度を増すために袖石垣が組まれており、日本の城塞の石垣にもみられる美しい曲線美を併せ持つ算木積の技法が採用されている。砂防施設へのこのような石積技術の応用は世界的にも珍しく、福山藩の領土にだけに残る文化遺産とされている。
 福山藩で江戸時代中期の1700-1800年にかけて砂留が造られ始め、明治時代まで続いた経緯については福山藩の砂留を参照のこと。

 ・本谷川砂防学習ゾーン
 広島県は、歴史的価値をもつ本谷砂留を保全するために、本谷砂留の上流域を中心に石積の護岸工事を施すとともに、「親水公園」を中心とした自然公園の設置を行った。この整備事業は国から「砂防学習ゾーンモデル事業」として、広島県内で最初に認定された。管理は広島県福山土木建築事務所。周囲には東屋や散策路も整備される。


 …と、こんな「本谷砂留」であります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →