秋田県 秋田市 <2/13>

  

(右)秋田入り初日の夕方は、ホテルすぐ近くのお寺を散策となりました(^_^)v
ズラッと20数ヶ寺ありまして全部廻りますのはとても時間を要して断念でした(^.-)☆

  

(左)このお寺の境内から丁度正面に宿泊しましたホテルが見えました(^.-)☆

  

↑↓ ご覧の通り数多くのお寺が… 散策しましたのは、その一部のお寺でしたが…

  

  

   

(右)“菅江真澄の道・まんだら小路”の標識が…でも、菅江真澄sanとは何者!?

菅江真澄

 菅江真澄(本名白井英二)は宝暦四年(1754)、三河ノ国(愛知県東部)で生まれた。天明三年(1783)旅に出た時から白井秀雄と名乗り、文化七年(1810)から菅江真澄と称した。文政十二年(1829)七月十九日、仙北の地で亡くなったが、墓碑には享年七十六・七とあるので、当時の秋田の人々も正確な年齢はわかっていなかったようである。

 人生の大半を旅に生きた真澄は、百種二百冊におよぶ著作を残した。著書には詳細な絵図が挿入され、読む人に感動を与えている。日記、地誌、随筆、図絵集などの体裁をとっているが、その内容は民俗、歴史、地理、国学、詩歌、、考古、本草、宗教などの分野におよんでいる。人々はこれを『菅江真澄遊覧記』と総称している。

 真澄は旅を好み、故郷を出る前にも、富士山に上り、伊吹山で薬草をかり、姥捨山の月をみ、大峰山では修験道を学んでいる。旅に出てからは、長野、新潟、山形を通って、天明四年には柳田(湯沢市)で越年した。翌年には、横手、角館、阿仁、上小阿仁を通って秋田市を訪れている。その後、青森、岩手、宮城で遊んだあと、北海道に渡り、青森をへて、享和元年(1801)には、再び秋田に入った。この時真澄は四十八歳であった。これより没するまでの二十八年間、真澄は秋田を離れることなく、藩主佐竹義和や多くの藩士、神官、僧侶、農民、町民など多くの人々と交流した。藩の許可をえて、秋田六郡の地誌、雪、月、花の「出羽路」の編集に精魂をかたむけた。真澄の著書は、きびしい自然の中に生きた雪国の常民の喜びや悲しみを客観的に記述したものとして民俗学研究の貴重な資料となっている。

 秋田を歩き、秋田を誌し、秋田を愛した真澄は、取材途中、梅沢(田沢湖町)で病に倒れ、角館に運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられている。遺体は友人鎌田正家(古四王神社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られた。

 所在地は、秋田市寺内大小路一三七番地

 海の見える小高い丘にある。天保三年(1823)三回忌をもって墓碑が建立された。墓碑銘は真澄の弟子とされる鳥屋長秋が書き、長文の墓碑銘が刻まれた。

 昭和三十七年(1962)四月七日、秋田市は「秋田市史跡」第一号に指定した。鎌田家では今でも墓を守り、墓への道は寺内史談会、寺内老人クラブの人々によって清掃されている。

  

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →