昭和記念公園・新宿御苑・明治神宮・都庁ビル <4/6>
新宿御苑の誕生

 明治31年に新宿御苑の責任者となった福羽逸人は2年後の明治33年、パリの万国博に菊の大作り3鉢を出品し、大好評を得ました。この時ベルサイユ園芸学校教授、アンリー・マルチネーに植物御苑を庭園に改造する計画の設計を依頼しました。

 当時の設計図は残念ながら昭和20年の空襲で焼失してしまいましたが、マルチネーが描いた鳥瞰図を見ると中央右側の建物をのぞいてほぼ現況に近いため、マルチネーの設計に従って造られたと考えられます。

 新宿御苑は明治35年から4年の歳月をかけて明治39年5月に完成し、明治天皇の御臨席のもとに日露戦争の祝賀を兼ねた開苑式が催されたとのことです。

 新宿御苑を大改造し、新宿御苑を造成する計画が実現されるまでの経緯は定かではありませんが、若くして西欧の花きや果樹園芸を学ぶためにフランスやドイツに留学するなど欧米の園芸全般に通じていた福羽の存在が大きな影響を及ぼしたのではないかと想像されます。


皇室の庭園から国民公園へ

 新宿御苑が皇室の庭園としての道を歩きはじめた当初は、東京の街路樹に利用するプラタナスやユリノキの挿し枝、種子の供給の役割なども継続していましたが、大正6年からは観桜会(戦後は「桜を見る会」)、昭和4年からは観菊会の会場に定着したこともあり、桜と菊に関する内容及び体制の充実が図られました。

 また、大正年間には西洋庭園が9ホールのゴルフコースとしても利用され、新宿植物御苑時代の休憩所(旧御休所)が模様替えされてクラブハウスもかねるようになりました。昭和10年代になると戦争の影が御苑を覆い始め、昭和20年5月の空襲では台湾閣(旧御涼亭)と御休所を残して、ほぼ全焼という大きな打撃を受けました。

 戦後、一時東京都立農業科学講習所高等科が設置されたこともありましたが、昭和22年12月、新宿御苑は皇居外苑、京都御苑とともに厚生省の所管となり、昭和24年5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に開放されました。

 その後、昭和46年7月の環境庁の発足にともない、全国の国立公園などとともに所管を環境庁に移しました。そして平成13年1月の省庁再編により環境省に所管を移し、現在に至っています。

  

↑↓ いずれも新宿御苑内の景観です(^.-)☆

  

↑↓ いずれも新宿御苑内の景観です(^.-)☆

   

  

(左)(中)(右)新宿御苑の散策後、テクテクと歩きまして明治神宮にと向かっていますと、街中にこんな立派なお寺が…

  

(右)新宿御苑からも見る事が出来ましたNTTドコモの建物です(^.-)☆

  

↑↓ 明治神宮内の景観です(^.-)☆

  

↑↓ 明治神宮内の景観です(^.-)☆

  

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →