2023/09/24(日) 佐木島(さぎしま)一周ウォーク <6/7> |
拝殿・本殿の周りをグルッと廻って境内に戻って来ますと、境内端の建物の軒下に鬼瓦が二体置かれております。
ガイドさんのお話しでは、老朽化の拝殿を建て替えした際に、拝殿の底地からこの鬼瓦が出て来ましたとの事。で、廃棄する訳には行きませんから、ここに保存している…との事でしたような(^-^)
WEB上で、亀山八幡神社≠ノついてもっと検索してみますと、こんな記載も…
◆亀山神社
--- http://sagishima.info/guidemap/guidemap-14/ ---
1124年に丸山朝臣源歳国(まるやま あそん みねもとのとしくに)が、京都石清水八幡宮の御分霊を勧請(かんじょう)されたとの説があります。
社紋は石清水八幡宮と同じ「左三つ巴」の紋が使われています。広い石段と両サイドの34基の燈籠は、非常に立派です。
向田地区は明治時代(1868年〜1912年・神仏分離)以降、神道が多く、神社が信仰の中心であったことが伺えます。
◆Vol4 弓を射ることで邪を払い、1年の無事と豊年を祈願する 亀山八幡神社『御弓神事』
--- 三原市公式note 2022年1月1日 00:00 https://mihara-city.note.jp/n/n7bcb51af481c ---
開催時期 例年2月11日(祝)
特徴 恵方と逆の方角に設置した的に弓を射ることで邪を払い、1年の無事と豊年を祈願する行事
須波港から瀬戸田行きのフェリーに揺られて20分。佐木島の南西部にある向田港に着くと、すぐに広島県文化財にも指定されている磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう)が見えます。
それを右手に見ながら、道路のお地蔵さんを辿っていくと、向田地区の亀山八幡神社(かめやまはちまんじんじゃ)があります。
亀山八幡神社は弘安(こうあん)10年(1287年)に京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)より御分霊(ごぶんれい)を勧請(かんじょう)して祀ったのが始まり。毎年2月11日の祝日に開催される御弓神事(おゆみしんじ)は三原市の無形民俗文化財にも指定されています。
・芸予諸島に見られる厄払いの神事
弓を使った祈祷は、広島県、香川県、愛媛県の沿岸部の神社に多く見られる神事で、佐木島にある亀山八幡神社もその一つ。御弓神事では、1メートル四方の大的と、その横に直径40センチの小的を用意します。
的の位置は毎年異なり、その年の恵方と逆の方角に的を設置して、これを射ることで邪を祓い、豊年と一年の無事を祈るのだとか。
「矢を射ることは、その年の厄払いの意味合いがあるので、的は絶対にはずせません。練習もしますし、その日は相当なプレッシャーですよ。」
そう話すのは亀山八幡神社の宮司になって15年の山田 修さん。以前は糸碕神社で20年務められていたそうです。宮司の山田さんが射るのは小的で、その後、大的に総代、世話役、頭屋の順に射ち、一般参拝者も矢を射ることが出来ます。
・神社の竹で作った手作りの矢
弓で射る矢とは別に、その年一年のお守りに、神社にある竹林の竹を使った矢も配られます。この矢は毎年交代制で神社の祭事のお世話をする頭屋(とうや)が一本一本手作りしています。祈祷(きとう)された矢は参拝者が持ち帰り、一年間家で飾られたあと、節分祭で神社に返して焼納し、また御弓神事で新しいものをもらいます。
・地域に根ざした神社
実は向田地区は神道の家が多く、地域の冠婚葬祭も亀山八幡神社が担っているのだとか。それは、向田の庄屋だった西原庄蔵氏が、維新後の神仏分離の流れの中、率先して村内に神道を広め、神社を改築したことも理由の一つ。
西原庄蔵(にしはらしょぞう)は、1832年に佐木島の西にある割石島(わりいしじま)との間の干拓に着工し、1834年には扇浜塩田(おうぎはまえんでん)を完成させるなど、多くの偉業をなした人物で、その功績に対し神社境内に西原庄蔵翁頌徳碑(にしはらしょうぞうおうしょうとくひ)が建てられており、毎年10月に「頌徳祭(しょうとくさい)」が行われています。そんな歴史のある亀山八幡神社は地域に根ざした神社として愛されています。
◆西原庄蔵翁顕徳碑
--- https://ameblo.jp/hidsrod/entry-12476130493.html ---
天保元年(1830)当時の庄屋であった西原庄蔵氏が6年の歳月と私財を投じ、流れの速い割石島との海峡を埋め立てるという難工事を行い、扇浜塩田を造成しました。
…と、亀山八幡神社≠ノ関しては色んな記載がありますけど、「西原庄藏翁頌徳碑」に関しましてはんっ!?≠フGONsanです。
既に、先に、
『◆西原庄藏翁頌徳碑--西原庄藏翁頌徳碑は、日本の教育者である西原庄藏翁を讃えるために建てられた頌徳碑です。この頌徳碑は、広島県広島市南区にある広島大学の本部キャンパス内にあります。』と綴りましたけど、う〜ん、日本の教育者である西原庄藏翁≠ニは、同姓同名の別人でしたようですネ(^-^;
WEB上で検索しましたら、西原庄藏翁頌徳碑≠ナ日本の教育者である西原庄藏翁≠ェ出て来たものですから(^-^;
それでは、亀山八幡神社≠ニお別れですけど、石段を下り鳥居へと下っておりますと、鳥居の前方方向に青々とした瀬戸内が…そぅそぅ、こんな記載もありました。
◆島の記憶 30 -- 佐木島・亀山八幡神社 --
--- https://blog.shimaproject.jp/?p=9233 ---
創建1129年の亀山八幡神社。約半世紀前までは、ここから塩田が見えたと聞く。
水田、塩田、芋、タバコ、除虫菊に柑橘畑。生活の糧と共に変化しただろう眺望に感慨を覚えた。
…との事で、50年ばかり前までは、この鳥居から少し上辺りから塩田が眺望出来ましたようであります(^.-)☆
それでは、また、ウォーキングがスタートです。亀山八幡神社からは、峠を越え佐木島東部の海側へと向かいます。峠の上り口辺りには墓地が存在で、立派なお墓が…
岩田家先祖之墓≠ニ刻まれていますけど、とにかく立派。島の名士の一族の方々のお墓なんでしょうねぇ〜
峠を上りきりますと、前方が開けて青々とした瀬戸内が(^_^)v
対面に見えます海の向こうは、三原市木原町辺りかも(^-^)//"
穏やかで青々とした美しい瀬戸内に眼を向けていますと、周辺にはこじんまりとした建物が散在です。これらの建物は別荘なんですねぇ〜イィ景観です(^.-)☆
右手の美しい海を横目に進んでいますと、志呂谷花見園「道祖神の丘」≠フ石碑が…
この丘に上がって行きますと、こんな石碑がありますようです。
◆道祖神
昔から、村境・峠など路傍に祀られている神である。
禍・悪霊を防ぐ村の守り神で、縁結び旅の安全をつかさどる。
婚姻や出産・子孫繁栄・長寿の神として信仰されている。
そこで桜花咲き、夫婦島を眼下に望むこの丘に、双体道祖神を祀り男女和合の聖地とする。
本邦唯一無二男女和合の聖地
志呂谷花見園道祖神の丘
世話人 平木正明 新開稔 平木豊彦 河本吉重 平成29年4月8日
こんな道祖神の丘≠通過し暫く進んで行きますと、まるで外国を思わせますモダンな住宅が…この建物も別荘のようですネ。
ここには、ペットとして飼われているのでしょうけど、独り寂しくポニーが(^.-)☆
仲々人懐っこくて、カメラを向けましたら近寄ってくれましたネ。何にも与える食べ物が有りませんので、誠に申し訳ないですm(_ _)m
ガイドさん曰く、この別荘の住人は毎週末にヤッて来られますようで、ポニーの食べ物は、日常、近隣の方がお世話されていますとか(^-^)
大変可愛いぃポニーでありました(^-^)/
ポニーとお別れし、さぎしま青年の家°゚くまでヤッて来ますと、昼食後にウォーキングスタートから1時間半経過ですので、道路脇の木陰で休息となりました。
10分ばかり休憩後に、ウォーキングは再開です。少し進みますと「番外二十番 大瀧寺」の祠が…
◆八十八カ所お大師めぐり
--- http://sagishima.info/experience/eighty-eight/ ---
島の人々は信仰心が篤く、元禄の頃(1688年)より、多くの人が四国巡礼をしてきました。
しかし、島に住む人々にとっては、四国への巡礼は容易なことではありませんでした。そこで、島内に小さな規模にはなりますが八十八か所の霊場を設け、四国八十八か所巡りと併せて日常的に巡礼できる島内八十八か所を巡礼するようになって来ました。
島内八十八か所は大正(1912〜1925年)の初め頃に設けられ、順番に番号が付されています。
1番は須ノ上地区の石鎚山真言宗鷺浦教会から始まり、向田地区−佐木地区へと島を一周して、88番は須ノ上地区で終わっています。
結婚式が各自宅で行われていた昭和30年(1955年)代までは、八十八か所のお大師さんが若い衆(青年)によって、祝儀の家に運ばれ祝うという風習がありました。
これは、お嫁さんの腰がその家に座るようにという願いからのようです。
結婚式が終わるとその家の人によってお大師さんが戻されましたが、戻す場所が変わってしまうなど、現在では順番が設置のされた頃とは違ってきているようです。
お大師参り(お大師講)は、旧暦の3月21日と11月21日に行われてきましたが、今は1月の第3日曜日と5月3日(祝)に行われています。
当日は「お接待」といって、お菓子や食事などがお大師講の方々によってふるまわれています。
八十八か所全部を徒歩で巡拝しますと、15km、5〜6時間はかかります。
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