2023/04/21(金) 仏豪華客船ル・ソレアル≠ェ鞆に初寄港(^.-)☆ <2/4>

 

 

 

 

 

 

 グリーンラインから眺望しながら後方を振り返りますと、内海大橋が…これもまたイィ景観であります(^.-)☆
 それでは、グリーンラインから下りて鞆港に向かい、圓福寺からル・ソレアル≠画像に納めたいと思います。
 仙酔島への渡船場に隣接の駐車場に車を駐め、圓福寺に向かいます。圓福寺への石段脇には夾明楼上り口 森下博 建立≠ニ刻まれました石碑が…
 圓福寺に到着しますと、本堂軒下にも當山再建費 寄附者 森下博≠ニ刻まれた石碑が…

 ◆圓福寺夾明楼
 江戸時代から鞆では句会が盛んで、圓福寺の座敷は「夾明楼」と呼ばれ、漢詩会、句会の舞台にもなっていた。頼山陽の叔父である頼杏平がこの座敷を「夾明楼」と命名し、美麗な書を残した。

 ◆森下 博
 森下 博(もりした ひろし、1869年12月5日(明治2年11月3日) - 1943年(昭和18年)3月20日)は、日本の実業家、森下仁丹の創業者。広告宣伝を積極的に行って商品の名を広め、日本の広告王と称された。広島県鞆町生まれ。幼名は茂三(もぞう)。

 
圓福寺の本堂裏からは、仏豪華客船ル・ソレアル≠ェ随分近くに眼に入ります。
 ここからは、弁天島・仙酔島の美しい景観も眺望出来ますから、GONsanにとりましては、鞆の好きな場所の一つなんであります(^_^)v

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 圓福寺境内の石段脇には、こんな石碑が…
 この石碑につきましては、WEB上にこんな記載が…


 ◆桑原伊賀守重信一族墓域修復碑姪

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10826188574.html ---

 南北朝戦火に呑まれた悲劇の武将【桑原重信】
 『大可島城跡案内板』より
 桑原重信一族この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。そもそも桑原家は代々、備後国服部永谷に住し椋山城主たり。元弘の頃、備後一の宮櫻山慈俊と共に後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武の中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ね、南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。先祖を偲び同族相計りて、大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。

 大可島城の築城時期は未だ判明しないが、鎌倉末期から南北朝期に築かれた水軍城であった。と云われている。
 南北朝時代、この城は北朝の拠るところであったが、康永元(1342)年五月、南朝方の伊予の軍船が鞆を攻め、南朝方の大将・金谷経氏はこの城を占拠。
 北朝方も中国地方の兵を鞆に集め、小松寺に布陣。大激戦が行われた。
 この間に南朝方の本拠地である伊予が、北朝の攻撃を受け苦戦中であるとの情報が入り、南朝方の武士は伊予に向って脱出。
 鞆近郷(沼隈町の石浦城主)の武士だった桑原重信は、金谷経氏に乞いて、大可島城に残り篭城。一族だけで北朝方の三千騎を受けとめ奮戦したが、最後は自刃して果てたという。


 圓福寺境内から鞆港を見下ろしますと、ル・ソレアル≠フ乗客の皆様がゴムボートで入港し常夜灯右側の雁木から上陸です。
 ここでは税関≠フ係官が上陸手続きを執られますのでしょうネ(^-^)
 ズームを効かせて見てみますと、机には『税関』の張り紙が(^.-)☆
 それでは、石段を下り海岸沿いの穴葉神社≠ノ向かい、海岸から仏豪華客船ル・ソレアル≠画像に納めます事に(^-^)/
 穴葉神社≠ェどんな神社なのか知りませんので、WEB上で検索してみましたら、うん、うん、こんな記載がありましたネ(^.-)☆


 ◆穴葉稲荷

 --- https://4travel.jp/travelogue/11776898 ---

 写真は大波止から船番所、圓福寺方向の眺め、岬の先端に見える赤い鳥居が穴葉稲荷、陸奥稲荷神社の鎮座地。
 圓福寺が鎮座する岬は往古は大可島と呼ばれた小島で、鞆の浦を行き交う舟や鞆の港に出入りする舟の監視が効く立地から村上水軍の砦が築かれ、大可島城も築かれた。現在は陸続きとなった大可島に嘗ての面影を感じる事は少ないかもしれない。

 水産加工場の敷地を通り抜けると正面に赤い鳥居が立てられている。
 社頭には稲荷神の使い狛狐が一対、鳥居に額はあるが文字は退色し読み取れなかった。護岸沿いに奥に長い境内で、左側にも鳥居が二つあり、その先に社殿、更に奥に進むと鳥居を構えた境内社が祀られています。
 この神社の創建等詳細を調べて見たが定かにはならなかった。
 狛狐の台座に刻まれた「明治10年(1877)玉光講」が創建に繋がる唯一のものだった。

 境内に入ると赤い鳥居が二つ並んでいます。Gマップでは穴葉神社とあったが裏付けが見つからずここでは不明社としておきます。
 鳥居の先の二社は屋根の傷みは少ないけれど躯体は朽ち果てお札は納められていない。既に廃社されたものだろうか。
 その右にも赤い鳥居がある。
 鳥居の柱にはロープが張られ、綺麗に積まれた石垣の上にはあるべきはずの社の姿がない。石標や玉垣などに神社を特定するものは刻まれておらず、社が祀られていたであろう台座の正面に稲荷玉が見られるので恐らく稲荷社…だった?

 陸奥稲荷神社は入母屋妻入り鞘堂に切妻の拝所が付くもので、建替られたのは比較的新しいように見受けられます。
 拝所や鞘堂の内部の様子は窺えなかったが拝所の鬼瓦に稲荷玉が施されている事から陸奥稲荷神社で間違いないだろう。
 稲荷神は五穀豊穣の神として崇められ農耕のイメージが強いけれど、商工業や航海の安全なども司る事から港を見守るこの場所に祀られたものかもしれない。
 地元からは「あなばさん」と呼ばれて大切にされているようで、社殿改修に伴い寄進された方々の家紋が天井に描かれているという。
 広島県沼隈郡誌から穴葉神社と陸奥稲荷神社を調べて見たが創建や祭神など記されていなかった。狛狐の台座か明治初期だった事を思うと遡っても江戸時代までだろうか。

 陸奥稲荷神社の右の不明社。
 三社相殿の社が左右に祀られているが、社名札はなく扉は閉ざされ今もお札が祀られているのか外観からは分からなかった。
 中央の銅板葺の小さな社、そこには小さな狛狐が安置されていた。陸奥稲荷神社含めて祭神は宇迦之御魂大神と思われます。
 この一画には何匹の狐が住んでいるのだろうか?
 境内はここで終わり、この先は岩礁帯になる。<参拝日/2022/04/20>


 …と、こんな記載がありましたネ(^-^)//"
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