2023/08/22(火) みろくの里映画村&t近を散策 <1/2> |
これらの画像は、youtube動画(広島県福山市 封鎖された謎の集落:https://www.youtube.com/watch?v=bwG8T3PDFu0)からの無断借用なんですけど、ふ〜ん、2年前ですと、こんな感じであります。
映画村内の樹木・雑草も、2年経ますと随分生長しておりますねぇ〜
プー太郎sanのご要望にお応え出来ましたのか否か分かりませんけど、それでは、この辺で「みろくの里映画村=vとお別れです(^-^)
せっかくみろくの里&面にヤッて来ましたので、遠廻りになりますけど、帰路は能登原方面に抜けグリーンライン′o由で我が家へと向かいます事に(^-^)//"
沼隈町を能登原方面に南下しておりまして、急に思い立ち草深の唐樋門≠ノ立ち寄ります事に(^-^)
草深の唐樋門°゚くには駐車スペースがありますので、ここに駐車。
到着しますと、まず眼に入りますのが立派な石碑。駐車スペースは背面側になりますので、正面に廻りますと『重政誠之先生顕彰碑(農林水産大臣 渡辺美智雄書)』でありました。
◆重政 誠之
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
重政 誠之(しげまさ せいし、1897年3月20日-1981年6月3日)は、日本の農商務官僚、政治家。元衆議院議員。従三位勲二等旭日重光章。参議院副議長を務めた重政庸徳は兄で、安倍源基は親戚。
・来歴 人物
広島県深安郡神辺町に生まれる。広島県立福山中学(現・広島県立福山誠之館高等学校)、第六高等学校(旧制)を経て東京帝国大学法学部を卒業後、1923年、農商務省に入省。小磯内閣の農商次官、農業報国会理事、東久邇宮内閣の農林次官を歴任、商工省の岸信介とともに官僚の双璧と言われた。戦後は占領軍に公職追放され、1948年には昭和電工疑獄事件で嫌疑がかけられ逮捕され、一部無罪となるものの懲役1年・執行猶予1年が確定した。
1952年の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で旧広島3区から立候補し初当選、6期務める(当選同期に福田赳夫・大平正芳・黒金泰美・内田常雄・丹羽喬四郎・植木庚子郎・灘尾弘吉・宇都宮徳馬・加藤精三・山崎巌・今松治郎・町村金五・古井喜実など)。農商務省時代に、当時朝日新聞記者だった河野一郎と親交を持ち、自民党では河野派(春秋会)に所属、派閥の金庫番あるいは代貸し的な存在となった。1962年、第2次池田内閣で農林大臣として入閣を果たし、米価問題では「米価は徳川時代から政治米価」と語るなど農政に力を発揮した。
1965年7月に河野が死去すると、旧河野派(春秋会)代表幹事・最高顧問格として派閥の実質的なトップとなるが、社長と親交のあった共和製糖に、農相時代に払い下げた国有林を担保に、同社が農林中央金庫から不正融資を受けていた事件が発覚し(共和製糖事件)、事件への関与が疑われ秘書が政治資金規正法違反で逮捕されたことも影響して指導力が失われた。この過程で1966年12月に中曽根康弘らが「新政同志会」を結成し、旧河野派の多くを引き連れて派閥を離脱したこともあり、重政は森清に春秋会の実権を譲った。1967年、一連の政界黒い霧が注目を集める中行われた第31回衆議院議員総選挙では、「事件はマスコミのでっち上げだ」と訴えて6回目の当選を果たしたが、1969年の第32回衆議院議員総選挙では落選し、政界を引退した。1981年6月3日死去。享年84。墓所は青山霊園。元農林大臣重政誠之と顕彰碑が建っている。
…と、こんな方で、出身地の神辺町は勿論のこと、福山市内のアチコチにこぅした顕彰碑は随分見掛けます。
沼隈町の開発・発展にも尽力、貢献されたのかも分かりませんネ。
重政誠之先生顕彰碑のスグ隣りに草深の唐樋門≠ヘ存在し、説明板にはこんな記載がありました。
◆唐樋門
草深の唐樋門は、江戸時代初期の寛文年間(1661〜1672)に磯新涯が干拓造成されたのに伴って造られたものである。
樋の堂と呼ばれる建物とその床下の樋門の部分からできており、当初は木造りであったが、元禄9年(1696)と安永3年(1774)の二度にわたる大がかりな修理によって、樋門の門扉以外は石造に改められた。樋の上の地名をもたらした由緒ある唐樋門は、瀬戸内海沿岸の干拓造成の歴史を研究する上で大変貴重な産業遺跡である。
-- 福山市教育委員会 --
…と、こんな記載で、WEB上には、こんな記載も(^.-)☆
◆広島県の文化財-草深の唐樋門
--- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-206120900.html ---
沼隈町の南西部にある草深の南端に「磯新涯」という干拓地がある。福山藩の財政施策として寛文年間(1661〜1673)の頃およそ50haの干拓が行われたもので、この際に山南川の川口を堰止め、造成された新涯地への農業用水調整のために造られたのが、草深の唐樋門である。
堤防の東側の一角に、がっしりと石垣を積み上げ、水路に石柱や大きな木の柱によって樋門を組み上げ、巻きろくろによって用水を調整した施設で干拓史の研究上、貴重な産業遺跡である。
草深の唐樋門≠フ傍には辻堂が存在しますけど、「樋之上の辻堂(お大師)」ですネ。そして、その右側の小さな祠は「明神社」。
■草深の唐樋門(くさぶかのからひもん)
--- 福山ぶらり歴史紀行 https://bin-navi.com/rekishi-essay/4957/ ---
・市内に唯一残る干拓地の守りの砦
昔、沼隈の海は深く切れ込んでおり、常石の東部分は海に突き出た半島であった。寄宮八幡宮が鎮座する丘は、遠浅の海に浮かぶ島であった。
かつて海であった場所に、現在ハローズやニチエーなど大型店舗が建ち並び、その真ん中を県道が南下する。千年橋を渡ってすぐ左折すると、桜の並木道だ。ここが、寛文年間(一六六一〜七二)草深の磯新涯を干拓した際に造られた土手である。昭和二十六年に新たに田中新田ができ、今ではここがかつて海と新涯地を区切った境だったとは判別し難い。
左手に流れるのが、潮の混じった悪水を流す潮廻し川の名残だ。その川に沿って東進して行くと、土手の端に現れるのが「草深の唐樋門」である。
ひとつの樋門が土地の生い立ちを語り、それがまた三五〇年の人々の生きざまを想像させる。土地の成り立ちを知ることは、史跡を訪ねること以上に、より深く鮮やかに歴史を喚起させてくれる。
海側から見ると、樋門の全容がよくわかる。堂内部に取り付けられた滑車により、三枚の門扉が上下に動くようになっている。満ち潮時はこの門を堅く閉ざし、干拓地を守り、引き潮になれば開放して悪水を逃した。
裏側から眺めると石垣から突き出た石が太い梁を支えているのがわかる。守りの砦として堂々とした風貌である。
前方…そして、後方から…と、画像に納めながら眺めておりますと、仲々立派な歴史を感じさせます草深の唐樋門≠ナあります(^.-)☆
駐車スペースの脇には、手前から「御大典記念(昭和三年八月吉日)」「地神」「常夜燈」が…
唐樋門から常夜燈方向(東方→西方)に眼を向けますと、サクラ並木が続いています。春には桜の名所となりますかつての土手道で、向かって右が干拓地で、左が海でしたのでしょうねぇ〜
御大典記念碑には昭和三年八月吉日≠ニ刻まれておりますから、昭和天皇の即位式を祝して造立されたようですネ(^-^)
今まで、二度ばかり、草深の唐樋門≠横目に車で通過しました事はあるのですけど、こぅして、わざわざ訪れましたのは今回が初めて。歴史を感じさせます、実に立派な樋門でありました。
それでは、この辺で退散です(^-^)//"
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