2023/05/27(土) 「福山ばら祭2023」の初日を散策 <5/7>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ローズアリーナから出ますと、次はばらのステージ≠ノ向かってみます。
 親水広場では、チビッコ達が楽しそうに水遊び。多少汗ばむ感じもありますから、水遊びは涼しくてさぞ楽しい事でしょうネ(^.-)☆
 ばらのステージ≠フ裏側を廻るように流れて行きますせせらぎでも、同じようにチビッコ達がせせらぎの中へ(^_^)v
 その傍らでは、今からステージに上がりますグループなのでしょうか…最後の練習に取り組んでおられます(^-^)/

 

 

 

 

 

 ばらのステージ¥繧ナは、色んな団体の若者のグループが、次から次に躍動感溢れる動きで楽しそう(^.-)☆
 そんな中、眼を引きましたのが、この3人のグループ。
 未だダンス歴は浅いようで、決して上手とは言えませんけど、にも拘わらず、先輩のグループの皆さんにもひるまず、物怖じせず踊っていますから感心してしまいます。
 ダンス歴が浅いのですから、上手で無いのは仕方ないとしても、ダンスが好きなのでしょうねぇ〜こよなく踊ることを愛すその気持ちは充分伝わって来ましたから、GONsanもそぅでしたけど、観衆の皆様の暖かい視線がステージに集まっておりました(^_^)v
 暫しばらのステージ≠拝見後は、バラ花壇に向かってみます。
 本数も多いし、色んな種類のバラが並んでいますから、皆さん、思い思いの場所でカメラを向けておられます。そんな様子を後方から拝見しながら、何枚か、カメラを向けておられます方々の後ろ姿を画像に納めますのも、また楽しいですねぇ〜
 緑町公園の一角には、「歩兵第四十一?隊跡」の石碑が…
 揮毫は、満洲国陸軍軍官学校の歴代校長のお一人でもあり、歩兵第41連隊の第19代連隊長を務められた方で、山田鐵二郎sanであります。


 ◆歩兵第41連隊

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 歩兵第41連隊(ほへいだい41れんたい、歩兵第四十一聯隊)は、大日本帝国陸軍にあった連隊のひとつ。

 ◇沿革

 1896年(明治29年) - 深安郡(福山町)、(現在の福山市)に連隊本部を設置、12月までに第3大隊の編成が完了
 1898年(明治31年)3月24日 - 軍旗拝受
 1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍
 1907年(明治40年)11月 - 第5師団から第17師団に所属変更
 1908年(明治41年)7月20日 - 深安郡野上村の新兵営に移転
 1925年(大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により第17師団が廃止のため第5師団に所属変更
 1937年(昭和12年) - 蒙チョウ作戦に参加
 1938年(昭和13年)5月 - 徐州会戦に参加、その後バイアス湾上陸作戦に参加
 1939年(昭和14年) - 山東省における匪賊討伐作戦、その後大連に移るも直ぐに華南に移動
 1940年(昭和15年)9月 - 仏印進駐
 1941年(昭和16年)
 第5師団は第25軍に加入しマレー作戦の準備を開始
 11月15日 - 上海を出港
 12月8日 - シンゴラに上陸
 12月12日 - ジットラ線を突破
 1942年(昭和17年)
 1月11日 - クアラルンプールを占領
 2月 - シンガポール入城
 3月 - フィリピンパナイ島へ移動、ミンダナオ島平定作戦に参加
 7月 - 南海支隊に編入されポートモレスビー作戦に参加
 8月 - ラバウル経由でニューギニア島に上陸、オーエンスタンレー山脈超えを目指すが激戦の末に全滅寸前にまで追い込まれる
 1943年(昭和18年)8月 - 第5師団から第30師団に所属変更
 1944年(昭和19年) - ミンダナオ島からレイテ島に上陸、アメリカ軍と激戦を繰り広げる
 1945年(昭和20年)1月 - カンキポット山地で自活態勢に入る
 7月15日頃 - 連隊長が軍旗を奉焼し、自決したと言われる

 ◇備考

 歩兵第41連隊が玉砕したとされるフィリピンのタクロバン市と連隊本部のあった福山市とは、その縁によって姉妹都市提携がなされている。
 大岡昇平の『レイテ戦記』では、陣地構築も怠って容易に敵の進出を許し「ほとんど戦っていなかった」と酷評されているが、アメリカ陸軍第1騎兵師団戦史には「脊梁山脈での戦闘は、レイテ作戦においては特筆すべき勝利となった。険しく深い密林地帯が広がり、雨と泥でぬかるんだ地形にも負けずによく敢闘した」と第41連隊との激しい戦闘があったことをうかがわせる記述があり、福山市議が現地で行った発掘調査では山中に布陣していたことをうかがわせる遺物が発見されている。
 レイテ島カンギポット山付近で自活自戦した他の部隊と同様、歩兵第41連隊の終末の模様も明らかでない。
 昭和20年5月一杯はビリヤバ付近で戦闘し、その後カルブゴス山方面に移動したが、6月中旬頃には連隊の生存者は約80名となり、半数は患者で行動不能、残る半数も辛うじて行動できるという状況だったと言われる。7月5日に重傷を負い米軍に収容された佐々木ェ平大尉(連隊砲中隊長)の証言によれば、最後の連隊長である炭谷鷹義大佐が同日まで生存していたことは確実であり、その後、7月15日頃に連隊長は軍旗を奉焼し、自決したとの伝聞がある。
 福山市に居残っていた兵士は、8月6日に広島市へ原子爆弾投下を受けて救援に向ったが、残留放射能による二次被爆によって犠牲者も出た。また施設自体も8月8日の福山大空襲の被害を受けた。
 第41連隊の連隊本部跡には、戦後バラ公園が設置されたほか、兵舎を利用して広島大学福山分校が開校した。大学の東広島市移転後は緑町公園となっている。また敷地跡にあるJA福山市の敷地内に連隊跡を示す記念碑が建立され、記念碑の脇には司令部の門も保存されている。また連隊の慰霊碑は備後護国神社敷地内に建立されている。


 …と、こんな「歩兵第41連隊」のようであります。
 備考≠フ『福山市議が現地で行った発掘調査では』の福山市議≠ニは、福山市議・大田祐介sanなのでしょうネ(^-^)//"

 

 

 

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