2022/10/04(火) 「神島城跡」散策 <2/3> |
西神島公園の広場まで下りて来ますと、片隅に「開園記念植樹 西神島町内会」の碑が…
昭和58年(1983)7月3日に開園した記念公園で、鉄棒、水道、ベンチがありますけど、この辺りに神島城・曲輪等が存在しましたのでしょうねぇ〜
それでは、八幡神社社殿の横手(東側)に向かってみましょうか。社殿東側には墓地がありますネ。そして、墓地の一角には、無縁墓もありまして、「この無縁墓にお参りすると、願い事が叶えられると、昔から言い伝えられております。」の表示がありました(^.-)☆
たまたま、GONsanのサイフにはロト6の宝くじがありましたので、密かに「1等が当たりますように…」と願い事をしましたけど、何にもお供えはしておりませんから、叶いませんかも(^-^)//"
この庵というかお堂が、「福山西國第4番法然寺」ですネ。
法然寺横の竹林に沿って、案内板が。その横には、卵塔墓が並んでおりました。住職のお墓なんでしょうネ…
この案内板には、こんな記載がありました。
◆青葉の笛
神島は、万葉の時代には磯間の浦に浮かぶ小島でした。ここに「青葉の笛」を伝えている竹林があります。
浄土宗法然寺は、法然上人が法難のため讃岐に流罪となった時、この地に立ち寄られ草庵を結びとまった跡と伝えられています。法然上人帰洛の後、上人を開基として、寺となりますが、福山城築城にあたり、城下に寺を引いて安楽寺を創建し、その跡地に小庵を再建して法然寺と号しました。
笛の名手、平敦盛が吹いていた「青葉の笛」は、ここ法然寺の竹林の竹で、作られたと伝えられています。又、寺の若い層に盗まれて京都に運ばれ、敦盛の手に渡ったとも、鞆の津や磯間の浦に盛んに出入りしていた平家の武将が、神島の古寺にある「青葉の笛」の噂を耳にして京都に持ち帰り、敦盛に与えたとも言われています。
「青葉の笛」は「一枝の笛」ともいわれており、現在神戸の須磨寺に保存されています。
--- 平成27年11月28日 連絡先 福山市寺町1-20 大念寺内 電話(084)923-4439 神島町法然寺総代 湯川光義 ---
…と、こんな記載が。
「平敦盛」をWEB上で検索しますと、こんな人物であります。
◆平 敦盛
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。
・生涯
笛の名手であり、祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。承安4年(1174年)から治承2年(1178年)まで若狭守に任じられており、過去に官職についていた経歴はある。
平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。
このことから、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。
この『平家物語』の名場面は、のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となった。織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞『敦盛』の一節である。
法然寺から下に降りて行きます石段がありますので、向かってみましょうか…
石段の途中に小さな社が設置され、中には石仏が祀られておりました(^-^)//"
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