2022/11/20(日) 「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域散策 <5/12>

 

 

 

 

 

 ふ〜ん、さぬき市歴史民俗資料館≠ヘ、最初に入りました建物の後方にも資料館がありまして、こちらに入館は有料でありました(^.-)☆
 が、公営ですから入館料は、『一般100円、大・高校生70円、小・中学生50円』と低料金ではあります(^_^)v


 ◆史跡(国指定)富田茶臼山古墳

 茶臼山古墳は、大和朝廷ができる前、5世紀頃に、大和連合からの規制のゆるんだ時期に造られてもので、この地方では勢力の最も強い豪族の古墳である。
 古墳は、西向きで全長約139m、三段に築かれ、高さは約16m、後円部直径約87mの規模を持つ四国最大の古墳である。平成元年8月に行われた確認調査の結果、周囲に幅5〜20m、深さ1〜2mの濠左右対称に盾形でめぐらされていたことがわかった。
 古墳の墳丘や濠から、円筒埴輪・家型埴輪や葺石(ふきいし)などが発見されているが、服飾品は不明。埋葬施設は竪穴式石室であろうと推測される。
 前方後円墳としてのこの古墳の規模は大きく、ほぼ完全な形で保存され、5世紀の謎を解く鍵を秘めているところに特徴があり、今後の調査が期待される。

 ◆明治維新後の理平焼

 10代理兵衛は1864年から1866年京都の3代高橋道八の元で修業し、乾山写しの色絵手法を習得した。明治3年に藩の保護が無くなると、名を理兵衛から理平に改名し、色んな道を模索し始める。
 明治27年から香川県監獄署にて呉須で絵付けされた半磁器に特徴ある茶器など、また敷瓦や土瓶等の技術指導を行う。その後、煉瓦生産にも手がけた。明治33年には理兵衛焼の古地である栗林公園北口に登窯を再興した。
 11代理平は大正5年には陶器組合「讃陶舎」を設立して、新たな時代に合った伝統技術の再生に尽力した。
 12代理平福寿は、昭和19年32歳の若さで中国で戦死、その子克美は2歳だった。克美(13代紀太理平)は京都工芸所で久保駒太郎に2年間師事、さらに、粟田口の伊東陶山のもとで4年間修行した。

 ◆富田焼

 (1)陶郷としての富田

 讃岐の「焼きもの」は、理兵衛と源内焼の二系統に大別することができる。そのいずれもが「富田」に関連して発展している。
 約三百年前、京の陶工森島作兵衛は、讃岐高松に招かれて、理平焼を興すがこの時、富田丸山の陶土を用いて作陶している。また、その後、五代目理兵衛弥助が一時期高松から富田吉金に窯を移して作陶した。これが、富田焼の始まりである。
 天明年間には、平賀源内の弟子赤松松山が吉金で製陶し、この時は異国風の陶器のほか「南京染付」と呼ばれる「磁器」を焼いていることが注目される。
 この後を受けて富永助三郎を総帥とする多くの焼物師が、茶碗から土管まで多種多様な日曜雑器を焼き、更に享保年間には斎藤要助が南川横井に斎藤焼を興した。
 天保年間には、富永庸八が美術工芸品として富田焼を焼き、その作風は尚八に継がされている。また吉金窯が廃窯となったのち一部の陶工達は、その技術を生かして土瓶の製造を始めている。これが「吉金どびん」となった。
 大正期には、地元で茶碗会社と呼ばれた、香川県製陶会社が創立されて日用器としての富田焼俄作られ、その後は同社に関係していた藤田広一・向井南洋などが個人窯を築いて富田焼を焼いている。
 戦後は田中富八から紀太理光を経て現在に至っている。
 製陶には、よい陶土、豊富な燃料、水車のあめの水、そして優れた陶工達などの条件に恵まれなければならず、大川町富田は、これらの製陶条件に恵まれた讃岐の陶郷であった。

 (2)窯跡と陶片

 古くから焼き物が盛んであった大川町内には大小の窯跡が各所に残っている。なかでも次の三つの窯跡は代表的なものである。

 @吉金窯跡=この窯跡は、JR神前駅近くの三次山東面にあり、富田焼を代表する大規模なもので、長い間、多くの陶工達によって数多くの作品が焼成されている。昭和43年3月の発掘調査によって判明した窯は、八房の焼成室を持つ全長40m、高低差9mの登り窯である。現在県指定の史跡となっている。
 A斎藤窯跡=南川横井の滝の宮神社の参道南側にあったが現在は木材搬出道になり残っていない。窯の大きさは、未調査のため不明であるが吉金窯の半分程度と推定される。この窯も吉金窯と同じものを焼いておりその分窯である。
 なお、この窯が注目されるのは操窯に関する詳細な記録が代々、斎藤家に保存されていることである。
 B平尾窯跡=筒野の五井池西岸の平尾家の前庭にも登り窯跡がある。昭和47年大川町教委による発掘調査で三房の焼成室が確認されるとともに刻銘のあるものなど多くの陶片が出土している。

 ・陶片
 窯跡の近くに「物原」とか「灰原」とかと呼ばれるところがあって、ここには不備な製品や窯道具、灰などが捨てられている。ここから出土する陶片によって作風、年代などを知る事が出来ることから焼きもの研究上重要である。
 例えば展示の陶片を参照して頂けば解るように、吉金窯跡出土の陶片は、各種の日用雑器や染付磁器、源内焼との関係を示す異国風の素焼片などがあり、更に記録のあるものとして理兵焼の印や「富田」「氏山」などがあり、窯道具には、○○、岩、などがあり共同窯の性格がうかがわれる。


 ◆富田焼きの由来

 --- http://www.rikoukita.com/profile.html ---

 四国高松から東へ約五里、阿讃山麓の丘陵地帯に位置する大川町富田は良質の陶土を産し、江戸時代、焼きものの里として栄えたところであった。
 もともと讃岐は、古くから製陶の盛んな国として知られ、正倉院の記録によれば、すでに奈良時代から特産物として、朝廷に焼きものが納められている。
 江戸時代には、讃岐お国焼として、理兵衛焼、源内焼、冨田焼、屋島焼、讃窯などが名声を高めた。
 なかでも理兵衛焼は、高松藩祖 松平頼重公が京都より招いた森島作兵衛が、慶安二年、紀太理平衛と改名し創窯。富田の陶土を用いて、優美な色絵陶器を焼成した。
 吉金3享保三年、四代目理兵衛 が富田に窯を持ち、富田印の美しい色絵陶を残した。
 天明、寛政年間に、このあとを受けて、平賀源内高弟の赤松松山が、南京染付を中心とした富田焼を焼成し、ついで化政期から天保年間にかけて、富永助三郎が多くの焼物師たちを指導しながら日用雑器を大規模に焼いている。
 県指定史跡「冨田焼吉金窯跡」は、この時期のものである。
 昭和五十一年春、理平焼十三代の実弟・紀太理光が、始祖ゆかりの富田の地に陶房を築き、富田焼吉金窯を再興した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆さぬき市の中世石像物

 鎌倉時代になると供養塔として五輪塔、宝篋印塔などの石像物が造立されるようになります。一般的に鎌倉〜南北朝時代は大型ですが、室町時代になると小型化し数が増大する傾向があります。その背景には供養塔を造立する階層が広がったと、墓石としての供養塔の使用が増大した事が考えられます。
 さぬき市内でも各所に見られますが、他地域に比べて石幢が多いのが特徴になります。
 また、香川県の場合、中世段階の石像物の石材はその多くが軟質の凝灰岩を使用していましたが、さぬき市内では火山で採石される火山岩が著名です。

 ◆雨滝城跡

 所在地:大川町富田中216番地の1 他
 所有地:大川町 他

 ・概要

 雨滝山は大川・寒川・津田三町に跨り、海抜253m、この頂上に長禄年間(1458頃)安富山城守盛長が城を構え、以来築後守盛正、筑前守盛方、肥前守盛定と相次ぎ、天正11年(1583)長宗我部元親勢の侵攻に遭って降伏落城した。
 本遺構は、瀬戸の海を扼する要衝にあり、天然の要害地形を巧みに取り入れて普請された典型的連郭式山城である。山頂本丸跡を中心に、東方二段・西方五段・北方五段、三方尾根上に削平地が形成されている。昭和57年、本丸を含め七郭、昭和45年に西第五郭部、計八郭の発掘調査が行われた。南第二郭を除き、すべての郭に礎石が検出され、建物遺構の存在が裏付けされている。各部をつなぐ犬走り・掘切・土塁等の遺構も明らかとなった。
 出土した遺物としては、土師質土器・備前焼甕・中国製陶磁器・古瓦(いすれも破片)・坩堝(るつぼ)・鉄滓・小柄・短刀・透し彫り鍍金金具・輸入銭(唐・北栄銭)・貝・王石・焼けた壁土等で、注目すべき山城解明に貴重な資料を得ている。
 安富氏は応仁の乱に武将として出陣、乱後は西讃の香川氏とともに細川氏の守護代として讃岐を二分して東讃を管轄した。平素の居館は雨滝山麓の城山、その他石田、津田側などにあったと推定されている。

 
--- 大川町教育委員会 ---

 

 

 

 

 

 

 ◆条里制と南海道

 --- http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/kodai.html ---

 田地は6町四方に区画され、一辺を条、他辺を里と呼び田地は南条南里南坪で表示されました。1町は一辺約109mの方形区画になります。各地に見られる碁盤目状になった土地区画は条里制の痕跡であることが多く、香川県内でも発掘調査によって複数個所で7世紀段階での存在が明らかになっています。さぬき市内でも条里制の区画は明瞭に残されています。
 次に律令国家は地方組織として全国を畿内・七道に行政区分しましたが、香川県では南海道に属します。そして中央と地方を結ぶ交通制度として官道(駅路)が整備され、約16qごとに駅家(うまや)を設ける駅制が敷かれました。さぬき市内では官道は東西に直線的に延びており、近世以降の讃岐往還、長尾街道に多くは継続していったと考えられています。駅家は香川県では東から引田、松本、三谿、河内、甕井、柞田の6駅があり、松本駅はさぬき市あるいは東かがわ市が想定されていますが未だ場所は断定できていません。
 古代の官道は幅9〜12mの直線道であったと考えられています。
 三木町白山からさぬき市大川町富田西までは今でも直線道路が見られ、古代南海道が推定されます。
 ところが富田西から東にかけては直線道が残されていません。近世の幹線道である讃岐往還は南に曲がっています。
 南海道を一直線として復元すると東は八剣池付近になり、途中には千町遺跡があります。
 三木町白山からさぬき市富田西へと続く直線道をそのまま東に延長すると千町遺跡の近くを通ることになります。千町遺跡では東西方向の溝が検出されており、溝の中からは7世紀後半の須恵器・土師器が出土しています。南海道を直線道として考えるならば南海道に関連する遺構であるのかもしれません。

 ◆条里制

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 条里制(じょうりせい)は、日本において、古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。ある範囲の土地を1町(約109m)間隔で直角に交わる平行線(方格線)により正方形に区分するという特徴がある。

 ◇条里の仕組み

 ・方格線
 条里を区分する方格線は、南北方向および東西方向に設定されている場合が多いが、地域・地形により傾いている例も少なくない。たとえば南北方向が7度傾いているとき、東西方向も直交するように7度傾いているのが通常である。
 連続した土地で方格線がずれている場合もある。たとえば郡ごとに方格線の傾きが異なると、平地の郡境で条里地割にはっきりとした食い違いが見られる。
 班田図などには、水面や山地など、田地以外にも方格線が引かれている。しかし、田のない地域を含めた全国を方格線で網羅していたわけではない。あくまで田のある土地においてそれぞれ独立して方格線が引かれている。その範囲内にある山の位置を条里で呼ぶことで、田地の位置関係もわかりやすくなっている。

 ・基本単位(坪)
 条里の基本単位は約109m四方の正方形である(菱形や長方形の場合もある)。古代日本では約109mは1町(=60歩)に当たり、約109m四方の面積も同様に1町と呼ばれていた。この1町四方からなる基本単位を「坪(つぼ)」又は「坊(ぼう)」と呼称した((現在でも使用される坪とは異なる)。
 坪の中は10等分に地割りされており、この区画は「段」と呼ばれた(地割方法は長地型と半折型に大別される)。

 ◆Y 古代文化の変化 そして古墳の終末へ

 6世紀の古墳時代後期に入ると、さぬき市内の古墳は事例が少なく実態が不明瞭になります。
 そして6世紀後半頃から従来の竪穴式の埋葬施設にかわって横穴式石室が一般化し、新しい埋葬儀礼が展開します。
 横穴式石室は死者をおさめる玄室と墳丘外部とを結ぶ羨道からなり、追葬を行う家族墓としての性格が窺えます。
 また、小型古墳の爆発的な増加が見られ、亀島古墳群のような群衆墳が数多く営まれるようになります。これは支配者層のみならず有力農民層までが古墳をつくるようになったことを意味します。
 6世紀後半は、さぬき市の各地に横穴式石室を埋葬施設にもつ小古墳が見られ、7世紀前半頃まで追葬と古墳築造が継続します。
 ところが7世紀後半になると急速に事例が減少します。
 この頃、日本は中央集権国家をめざし政治改革を行いました。
 この大化の改新によって地方社会も大きく変容していきます。
 その一つが古墳の終末でした。豪族たちは権威を示すものを古墳造営から寺院建立に移行させていきます。

 

 

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