2022/11/20(日) 「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域散策 <3/12> |
それでは、前方部から後円部に向かいます。
後円部の墳頂に有りますのが妙見神社≠ナすネ。
後円部の傍らに説明板が設けられていますので、眼を通してみますと、
◆史跡 富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん)
--- 平成5年7月26日指定 ---
富田茶臼山古墳は、5世紀前半に造られた四国最大の前方後円墳です。
平成元年に行われた確認調査によって、全長は139m、後円部の直径91m・高さ15.7m、前方部の長さ48m・幅77m・高さ11.8mの大きさであり、四国最大の古墳であることが改めて分かりました。また、墳丘は三段に築かれ、古墳の周囲に周濠が巡らされていることも分かりました。さらに、墳丘や周濠から円筒埴輪や形象埴輪などが発見されました。
この古墳の西側も平成5〜8年にかけて調査が行われ、三基の陪塚(ばいちょう)が確認されました。陪塚とは、大型の古墳を主墳とし、それに従属するように同じ時期に計画的にその周囲や隣接地にある小型の古墳です。陪塚の大きさは一辺14〜24mあり、三基とも四角い形をした方墳です。
これらのことから富田茶臼山古墳は、四国を代表する首長墓であることが分かります。
--- さぬき市教育委員会 さぬき市文化財保護教会 ---
…と、こんな記載がありました。この説明板の左下には、富田茶臼山古墳平面図と3基の陪塚位置図の記載も。
富田茶臼山古墳の後でさぬき市「歴史民俗資料館」′かいましたけど、そこで貰いましたパンフに眼を通しますと、
◆四国最大の富田茶臼山古墳の謎
《ミステリーT》大川町に、なぜ巨大古墳がつくられたのだろうか…?
@前方後円墳とは…
古墳には、前方後円・前方後方・円・方などいろいろの形があります。このような形のちがいや、古墳の大きさによって豪族の地位や、力の大きさをあらわしていました。
これらのうち、前方後円墳はもっとも力の強い豪族にあたえられたものです。
A中国・四国・九州地方の各県ナンバーワン前方後円墳の大きさくらべ
造山(岡山)--全長360m、女狭穂塚(宮崎)--全長174m、富田茶臼山(香川)--全長139m、岩戸山(福岡)--全長138m、大塚(鹿児島)--全長137m、亀塚(大分)--全長120m、北山(鳥取)--全長110m、渋野丸山(徳島)--全長90m、三ツ城(広島)--全長84m、相の谷1号(愛媛)--全長82m
B東讃地方の古墳時代
4世紀の東讃地方には、小豪族がたくさんいました。5世紀になると、これらの勢力は消えてしまい、かわって巨大な富田茶臼山古墳がつくられました。ほうむられた人は、大川郡を治めていた大豪族であったと考えられています。
《ミステリーU》どのようにして巨大古墳が造られたのだろうか…?
@古墳の場所を決める
民衆に力を見せつけるために、むらに近い小高い丘の上に場所が決められました。
A古墳を設計する
完全に左右対称にの形につくるため、正確に設計し測量していました。
墳丘に盛った土がくずれないように、斜面の角度も計算されていました。
Bつくる人を集める
測量、天文、土木技術など高度の知識を持った少数の人々と、実際に土を掘ったり運んだりする、肉体労働にあたるたくさんの人々が集められました。
Cいよいよ工事にかかる
設計図通りに正確に巨大な古墳を造るためには、高度な土木技術が必要でした。
また、工事に使われた人々の苦労はたいへんなものだったと思われます。
・盛られた土の量--約4万u(11tダンプカーで約7千台分)
・使われた埴輪の本数--まわりにぐるっとめぐらしたので、しめて約2千本。
・工事にかかわった延べ人数--約10万人(当時大川郡の人口は、約千人〜2千人と推定)
・工事に要した費用--およそ5億円〜10億円。
・第一次発掘調査で(1990年8月)で分かったこと
*古墳の形・造り方--墳丘も、堀も左右対称。3段に造られている。
*古墳の大きさ--長さ139m、高さ15m。
*古墳が造られた時期--5世紀前半。
*埴輪の立て方--格段の平坦なところに、ぐるっとめぐらされている。
《ミステリーV》ますます古代のロマンが広がる、富田茶臼山古墳…
@前方部を真西に向け、正確に3段筑成されている。
A円筒埴輪がきちんとならべられている--第一次発掘調査による埴輪列の発見。
B復元整備すると…
元の姿に整備された兵庫県神戸市にある「五色塚古墳」。
…と、こんな説明が記載されておりました(^-^)//"
後円部の墳頂の東側には石段がありまして、これを下って行きますと、降りたところの左側に祠が存在し、中には弥勒菩薩が祀られておりました。
◆西岡の弥勒菩薩
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
さぬき市指定有形文化財(彫刻)。
富田茶臼山古墳の後円部東側に祀られる弥勒菩薩の石仏。鎌倉時代後期から南北朝時代の間の作と推定される。かつて古墳そばの池から出土し、のち現在地に移し祀られたという。昭和47年8月22日指定。
◆西岡の弥勒菩薩(みろくぼさつ) --さぬき市指定文化財--
--- 祠内の説明板より ---
この石仏は弥勒菩薩と言い伝えられ、石材は火山の凝灰岩(ぎょうかいがん)が使用されています。頭部が欠落しているため別のものが置かれ、膝も二つに割れていますが大型であること、法衣(ほうえ)が表現されていることから鎌倉時代後期〜南北朝(約700年前)にかけて作られたと考えられています。
言い伝えによると約300年前、この下にある「通り池」(現在は通池公園になっています)を掘った際、この本尊の石仏が出たのでおまつりされるようになりました。現在の場所に移される前は、通り池の西に庵がありそこに安置されていました。その後、現在地に移され地元の方が毎日交代でお世話をされ、今も大切に守られている貴重な石造物です。(さぬき市教育委員会/さぬき市文化財保護協会)
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