2022/08/28(日) 福山城400年博≠ナ城内散策 <2/6>

 

 

 

 

 天守を見上げながら鐘櫓方向へ進んで行きますと、鐘櫓の石垣下には露店が何軒か(^-^)
 これを横目に進んで行きますと、「阿部正弘公之像」が。
 説明板に眼を向けますと、こんな説明書きがありました(^.-)☆


 ◆阿部正弘之像

 太平洋の波高く、幕末内外多難の時に際し、老中筆頭として国政を総覧し、近世幕藩体制における鎖国の旧弊を断って日米親和の条約を結び、開国への道を求め近代国家への扉を叩く。
 阿部正弘は、福山藩阿部家七代の藩主にして、弱冠二十五歳で閣老に任じ、爾来十有四年、その開明的な政策を推進し国政を整え、もって国外に対応せり。
 福山藩主としては、庶民の中に人材を登用し、藩政を改革し、教育に明日の世代の形成を託して藩校誠之館を開き、進んで西欧の学術をも取り入れ、その後の福山文化の発展に貢献す。
 市制六十周年の記念すべき年にあたり、銅像建立を発起し、先人の遺徳を偲び、明日への躍進を誓う。

 
--- 昭和五十三年四月建之 阿部正弘公銅像建立期成同盟会 ---

 …と、こんな記載が(^.-)☆
 阿部正弘之像を通り過ぎますと、眼に入りますのが「伏見櫓」です。伏見櫓の石垣に沿って進んで行きますと、「筋鉄御門」に到着です。
 それでは、筋鉄御門から本丸に入ってみたいと思います(^-^)//"


 ◆阿部正弘

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 阿部 正弘(あべ まさひろ)は、江戸時代末期の備後国福山藩の第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。

 ◇出生

 文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の5男として江戸西の丸屋敷で生まれた。
 文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、阿部公園(西片公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。
 天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである。
 天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。
 大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになった。

 ◇老中就任

 天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中となり、幕府を動かすようになった。辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行鳥居忠耀や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった。

 正弘は家慶、家定の2代の将軍の時代に幕政を統括した。嘉永5年(1852年)には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には、度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

 幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。
 さらに人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石(天領であった隣接の安那郡山野村と矢川村と神石郡上豊松ほか14か村 ※古川村を除く)はほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。

 弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀(神奈川県)へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。7年後の嘉永6年(1853年)にはマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。
 この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが、結局有効な対策を打ち出せず、時間だけが経過した。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。
 なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。

 ◇人物・逸話

 幕末維新の歴史を詳細に綴った徳富蘇峰の『近世日本国民史』では、阿部正弘に対し優柔不断あるいは八方美人の表現を使っている。『国民史』では歴史の登場人物の肉声としての様々な手紙を仮名読みに変換しているため、正弘の肉声を現代の読者が直接読むことができる構成から出発している。
 『国民史』に所収の書簡からは、攘夷論の正弘が国政を担当する立場から、極論や暴論を繰り返す攘夷派を抑えるために、本心を隠して意図的に協調路線を選択した点がうかがえている。教育研究機関を設置するなど実利的に洋学を導入しながらも、自らは蘭方医の治療を最後まで拒んだとされ、祖法の鎖国体制を破った点も心に傷として残っていたとされる。

 若すぎる死因に関しては肝臓癌による病死、外交問題による激務からの過労死など諸説ある。飛躍した説では、島津氏など外様の雄藩を幕政に参加させることに不満を抱いた譜代大名(溜間詰)による暗殺説まである。
 外様などの雄藩、非門閥の開明派幕吏を幕政に参加させる姿勢は、譜代などからは弱気な政治姿勢に見られ、「瓢箪鯰」とあだ名されたという(小西四郎『日本の歴史16 開国と攘夷』、中公文庫)。
 西洋の学問に理解を示し、勝海舟の紹介で正弘の邸宅に呼ばれた杉純道が、ドイツ版の世界地理書を用い詳しく説明した。正弘は「我が国は狭いな」と感銘し、杉のため原書を何でも買ってやろうと約束した。
 正弘は人の話を良く聞くが、自分の意見を述べることがほとんど無かった。ある人がそれを不審に思って尋ねると、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる。だから人の言うことを良く聞いて、善きを用い、悪しきを捨てようと心がけている」と笑いながら答えたという(松平春嶽の「雨窓閑話稿」)。
 正弘は肥満体であり、長時間の正座が苦痛だった。しかし、相手の話を聞くときは常に長時間、正座をしていた。正弘の退出後、茶坊主が正弘の座っていた跡を見ると、汗で畳が湿っていたという(木村芥舟の著より)。

 

 

 

 

 

 

 

 筋鉄御門から本丸に入ります前に、説明板を拝見です。説明板には、こんな記載が…

 ◆筋鉄御門(すじがねごもん)

 ・国重要文化財
 ・1933年(昭和8年)1月23日指定


 筋鉄御門は本丸へ入る正門である。門柱には欅(けやき)の太い柱を用い、脇戸を設け、門扉には十数条の筋鉄が打ち付けられている。外観は伏見櫓と同様に柱形や長押を漆喰で塗り出し、方杖は無く、窓は素木(しらき)である。狭間は設けていないが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っている。屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉(おもだか)」が使用されている。内部は門の上部を一段高くとり床張りとし、その左右は土間となる。
 1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定された。
 伏見櫓や鐘櫓とともに1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となり1951年(昭和26年)から解体修理が行われた。
 その際に、多くの材が交換されてはいるが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から再利用された転用材が含まれることが分かった。転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認できる。


 …と、こんな記載でありました。
 福山市のホームページには、「筋鉄御門」の、こんな説明が。


 ◆築城当時から残る本丸の正門 福山城筋鉄御門

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/koho-detail50/koho-202203/251837.html ---

 福山城を南側から登り本丸に向かうと、重要文化財の福山城筋鉄御門があります。
 筋鉄御門は福山城を築城するに当たり、京都伏見城から移築したものと伝えられています。 桁行き10間、梁間3間、入母屋造り、本瓦葺で一階(城門部)の両脇を袖石垣が挟み、二階(櫓(やぐら)部)は一階と袖石垣の上に建つ典型的な櫓門です。この形式の櫓門は西日本に多く見られますが、櫓部内部の中央を板敷、その両脇を土間としている平面構成は現存する櫓門では筋鉄御門以外は確認されていません。
 一階(城門部)の左右の門扉には「筋鉄」と呼ばれる筋状の薄い鉄板が縦に12条ずつ鋲留めされています。筋鉄は鍛造製で厚み2〜3mm、幅75mm、長さ約2,400mmを基本とし、装飾用金具の配置に応じて長さを調節してあります。門扉以外に脇戸や柱などにも鋲留めされており、このような様相から「筋鉄御門」と呼ばれています。
 この貴重な建物を後世に引き継ぐため、本市では筋鉄御門の保存と活用に取り組んでいます。1つ目は国宝化に向けた調査です。2018年度に建築学的な調査を実施し、建築年代や移築の証拠は見つかりませんでしたが、転用材が多用されているなど新たな事実が確認できました。二つ目は外壁漆喰壁の全面塗り替えです。伝統的な工法で白壁の優美な姿に修復します。
 8月28日には築城400年を迎える福山城。筋鉄御門をくぐり400年の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。


 筋鉄御門を潜り本丸に入りますと、スグに「伏見御殿跡」の石柱が…その脇には、こんな「本丸御殿跡」の説明板がありました。
 これには、


 ◆本丸御殿跡

 福山城本丸に所狭しと甍(いらか)を並べた御殿は「本丸御屋形」と呼ばれた。水野家時代に三之丸東側へ新たに屋敷が築かれ、その機能は移転をされた。阿部家時代に城内は相当荒廃し、本丸御屋形の奥向きの建物が撤去されたと、近世地誌である「備陽六郡誌」には記載されている。また「安永三年絵図」によれば、さらに撤去は進み南側の四棟のみとなるが、御殿として最低限の機能は残していた。
 1873年(明治6年)の廃墟により取り崩され、現在は礎石を残すのみである。
 建物の配置、室内や板戸に描かれた画題は、二条城二之丸御殿や名古屋城本丸御殿などに共通する点が多く、極めて形式的なものである。玄関の広間「虎之間」には虎の絵を描き、謁見の間である大書院「皇帝之間」では帝鑑図を描く。表向きの居室である表居間「伏見御殿」には落ち着いた山水が描かれていた。
 『安永三年絵図』では表居間を「伏見御殿」と書き、箱棟とよばれる屋根の一部には徳川家の家紋である「葵紋」が使われ、伏見城から移築されたとしている。現在も福山城で使われていたと伝わる杉戸がいくつか残っている。


 …と、こんな説明でありました。
 「伏見御殿跡」につきましては、WEB上に、こんな記載もありました(^-^)


 ◆本丸御殿跡

 --- https://kojodan.jp/castle/84/memo/952.html ---

 福山城の本丸には城主の居館である本丸御殿がありました。
 本丸御殿は多くの御殿建築と同様に公的な「表向」と私的な「奥向」から構成されていました。
 筋鉄御門から入ると左正面に表向跡(伏見西殿跡)の石碑が建てられています。
 こちら側が式台(玄関)で、その左手に内玄関がありました。式台の正面は広間(虎の間)で、この東側に渡り廊下で繋がれて大書院(皇帝の間)が建てられていました。
 大書院の南側には御風呂屋(現在の御湯殿)があり、往時はこれも渡り廊下で繋がれていました。一方、大書院の北側には表居間(伏見御殿)があり、こちらも大書院と渡り廊下で繋げられていました。
 この他に小書院(鶉の間)、表台所、料理間などがあり、これらの礎石は部分的に残されています。ただし整備状況は悪く、礎石の並びを体系的に把握するのはむずかしいです。
 また、奥向は表向の北側(天守の南側)に位置し、奥居間、奥台所、長局、などで構成されていました。
 ちなみにこの本丸御殿に居住したのは、初代藩主である水野勝成と、二代藩主・勝俊のみで、三代藩主・勝貞は三の丸東側に新たな御殿(三の丸御屋形)を造営して移り住んだため、居住施設である奥向部分は江戸後期に取り壊されています。
 表向の建物は式典などに用いられたので、その多くが明治時代まで残されました。

 …と、こんな記載が。
 「伏見御殿跡」に立ち、本丸内を見廻して、何枚かパチリ。う〜ん、リニューアル直後ですから、天守は大変キレイです(^_^)v
 この日は、WEB上で事前申込をしておりましたら、「鐘櫓・筋鉄御門・伏見櫓・御湯殿」等の中に入れるのですけど、GONsanは申請しておりません。ですが、中に上がらず入口からの写真撮影はOKですので、まず、筋鉄御門に入ってみたいと思います(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 筋鉄御門(すじがねごもん)の中に入りますと、皆さんは板間に上がって説明を(^-^)
 GONsanは、瓦等の保存場所になっています土間からこの様子をパチリです(^.-)☆
 それにしましても、これらの瓦は、どちらの建物のモノを保存しておられますのでしょうねぇ〜そちらの方が、気になりますネ(^-^)
 筋鉄御門から出ますと、次は「伏見櫓」へと。ここもまた、GONsanは入口から中の様子を…
 「伏見櫓」の説明板には、こんな記載がありました(^-^)


 ◆伏見櫓
 (阿部家藩主時代の名称:内拾番三重御櫓)


 ・国重要文化財
 ・1933年(昭和8年)1月23日指定


 伏見櫓は福山城本丸南西に位置する三重櫓で、江戸時代には武器庫として使用されていた。築城時に伏見城から移築された櫓の一つである。
 外観で特徴的なのは、柱形や長押を漆喰で塗り出す、真壁造と呼ばれる1階と2階の外壁の意匠である。その意匠は古式と評されることが多いが、その実例は極めて少ない。同じく伏見城から移築されたと伝わる月見櫓は大壁造であり、伏見櫓は別格であったことがうかがえる。
 1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)に筋鉄御門と御湯殿とともに旧国宝に指定された。筋鉄御門や鐘櫓とともに、1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、現在は国の重要文化財である。
 1951年(昭和26年)から行われた修理の際、二階の梁から「松ノ丸ノ東やく(ら)」の刻字が見つかり、伏見城からの移築であることが立証された。伏見城から移築された伝承を持つ建物はあるが、文献や刻字によって立証される全国唯一の現存建物であり、日本城郭史においても極めて重要で貴重な存在である。


 伏見櫓の次は、「鐘櫓」を拝見です。
 「鐘櫓」の手前には、「火灯櫓跡」の表示板が…でも、この「火灯櫓跡」を画像に納めますのを失念しましたから、WEB上から拝借です(^-^)


 ◆火灯櫓(火打櫓)

 --- 備後歴史探訪倶楽部 https://tanbou-club.net/ ---

 火灯櫓は横長の二重櫓で馬出門を守備する位置にあった。伏見城から移築されたともいわれるが、火灯櫓で移築を記す文献は備陽六郡志のみなので、同様に伏見城からの移築とされる櫓(伏見櫓、月見櫓等)が複数の文献を根拠とするのに比べ信頼性は極めて希薄である。そのため、新規に建てられた可能性も高いと考えられている。「火灯」の名称の正確な由来は定かではないが、恐らくは櫓の窓に火灯窓(花頭窓:炎のような形状の窓)が用いられたからだろう。火灯櫓の南側、東側には多聞櫓が巡らされ、南側は伏見櫓の手前まで続き、東側は馬出門に接続されていた。現在火灯櫓跡の背後にある鐘櫓は東側の多聞櫓の一部であった。
 火灯櫓の建つ本丸西側は絵図では様々な変化が認められるが、火灯櫓自体は初期の絵図からほぼ同じ姿を確認でき築城当初から存在したようだ。その後、建物は廃城まで維持されたが、明治初期に取り壊されたため、正確な形状は分からなくなっている。ただし、櫓台の石垣は礎石こそ見あたらないものの、よく残されている。尚、火灯櫓は阿部期に「内九番櫓」と呼ばれるようになる。
 なお、近代に「火打」と誤記され、今日では「火打櫓」が一般的な呼称となっているが、江戸時代の史料を見ると明らかに「灯」の字で記載されている。
 右手の鐘櫓辺りまでが火灯櫓の範囲だと考えられる。


 …と、こんな「火灯櫓(火打櫓)」とのことであります。それでは、「鐘櫓」の中を覗いてみますことに。
 入口を入ってスグに板間がありますけど、どなたもおられません。釣鐘の有ります2階に上がっておられますのでしょうねぇ〜
 ここでもGONsanは、入口から誰もいません板間をパチリとなりました(^-^)
 「鐘櫓」から出ますと、天守・筋鉄御門・伏見櫓方向もパチリです(^-^)//"

 

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