2021/01/25(月) 岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」散策

 ■2021年02月04日15:29
 1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆


 昨年のいつでしたか…「中世夢が原」を訪れました際に頂いた資料に、遠藤周作が、この小笹丸城を舞台に「反逆」という作品を書いている旨の記載がありまして、いつの日か機会があれば「小笹丸城跡」を訪れようと思っておりました。
 で、この日も天気が良いし温かいし、GONsanの足の調子も良さそうでしたので、「小笹丸城跡」散策となりました(^.-)☆
 WEB上で「小笹丸城跡」を検索してみますと、こんな記載がありました(^_^)v

 ◆小笹丸城跡

 --- 岡山県井原市美星町黒忠 ---

 ・小笹丸城跡の施設紹介
 きわめて緻密なプランによって築城されたと考えられます。
 小笹丸城は、城としてはとても小さく、100人なんとか入れるくらいの規模で、戦国期の村落領主の詰めの城の典型例と言われています。ただし、小さいながらも優れた構成をもち、緻密な計算の下建てられたことが分かります。遺構がほぼ当時のまま、完全な状態で保存されているため貴重な史跡です。建てられた年代やその時の城主は不明ですが、後年、作家の遠藤周作の母方の祖先である竹野井氏が居住していたという記録があり、遠藤周作はこの城を舞台に「反逆」という作品を書いています。

 ◆小笹丸城跡(おざさまるじょうせき)

 本丸、二の丸、三の丸と、段重ねのケーキのように彫りが鋭く、中世城砦の名残を色濃くとどめる城址です。
 また、遠藤周作氏の小説「反逆」の舞台としても有名です。

 ◆備中 小笹丸城

 ・歴史
 築城年代は定かではない。有力国人の竹野井氏の居城で、大永年間(1521年-1527年)には竹野井市朗衛門尉が、天正3年(1575)には竹野井氏高、竹野井春高が城主と云われる。

 ・説明
 小笹丸城は城平川に沿った標高390mの山に築かれており、現在は公園として整備されている。
 小笹丸城の縄張りは少々変わっており、中心に一段小高くなった本丸を取り囲むように帯曲輪群がある。しかし、この帯曲輪群も北にある大きな竪堀によって分断され、竪堀から東側は外に大土塁を設けた横堀状になっている。竪堀の西側は完全に切岸で、さらに側面に小さな曲輪を配し、竪堀に対して横矢が掛かるようになっている。

 ◆小笹丸城跡

 --- http://www.siromegu.com/castle/okayama/ozasamaru/ozasamaru.htm ---

 ・歴史

 小笹丸城の遺構は、現在ほぼ完全な状態で保存されている。頂上の平坦な部分は主郭(江戸時代の用語で本丸)と呼ばれ、城の中心である。城道がとりつく北と、尾根つづきの東側に土塁を備える。
 主郭から一段下の曲輪(江戸時代の用語で二の丸、三の丸など)2〜6は、次第に下がりながら主郭を一巡する帯曲輪である。曲輪6は、尾根つづき側を防衛する重要な曲輪である。東下にさらに2段の曲輪があり、その直下には堀切りを設け尾根筋を完全に遮断する。曲輪6の北側で土塁がカギの手に曲がる所は、虎口(城の防禦された出入口で門がつくられた場所)で、北側の竪堀に開かれている。
 見事に整備された状態です。竪堀は、北側斜面を区分し横移動を防ぐ。竪堀底は幅が広い上に、武者隠しによって守られる。こうしたことから、この竪堀は当時小笹丸城への大手道を兼ねていたと考えられる。曲輪7は内部に石積み井戸をもつ重要な場所である。このため、両脇に土塁を備える。
 小笹丸城は、戦国期の村落領主の詰めの城の典型的な事例といえ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランを創出している。その整った構成から、現在地表面から確認できる遺構が完成したのは、天正期(1573〜91年)に降ると考えられる。

 --- 『小笹丸城跡案内板』より ---

 ・私見
 主郭に土塁がよく残っています。周囲を一望できる主郭です。小笹丸城は美星町内西部に位置する小高い山城で、非常に散策しやすい整備されたお城でもあります。築城された時期は不明ですが、竹野井市郎衛門尉が築城し以後竹野井氏が居城し、天正の秀吉による高松城攻めの頃にまで存在していたようですね。城の状態は案内板にある遺構の説明が実に分かりやすいので縄張りをそのまま載せておきます。まるで中世山城の遺構を一気に説明するにはうってこいのお城ですね。

 ◆小笹丸城(おざさまるじょう)

 --- https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/06/blog-post_20.html ---

 ・所在地:岡山県井原市美星町大字黒忠字笠丸
 ・築城期:不明
 ・築城者:不明
 ・城 主:竹野井市朗衛門尉、竹野井常陸守氏高、竹野井又太朗春高
 ・遺 構:主郭・郭・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸
 ・高 さ:標高390m/比高90m
 ・指 定:井原市指定重要文化財
 ・登城日:2009年8月30日

 ◇解説

 旧小田郡美星町にあった山城で、小規模ながら遺構保存が良好な山城である。
 所在地は、合併した井原市の北東部にあり、北西1キロを進むと、高梁市(川上町)に入る場所にある。

 ◇小笹丸城の由来

 小笹丸城は、標高390m・比高90mの丘陵に位置し、美星町大字黒忠字笠丸に所在する。
 戦国期の村落領主クラスの詰めの城であると考えられ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランによって築城されたと考えられる。
 城域は、東西に150m、南北に120mを測り、主郭・曲輪・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸などが創出されている。
 創築年代は不詳であるが、大永年間には竹野井市朗衛門尉が、天正3年(1575)には、竹野井常陸守氏高・竹野井又太郎春高が居城したと伝えられる。
 主郭からの眺望は、八日市、星田の金黒山城址、川上町の国吉城址、弥高山などまで及び、各城砦や見張り所との連絡は、たとえば狼煙、鏡、釣鐘によって容易であったと推定される。
 南側の曲輪には、小説「反逆」のなかで、この小笹丸城を舞台としてとりあげた小説家・遠藤周作氏直筆の石碑が設けられている。

 ・現地の説明板によると、
 「戦国期の村落領主の詰めの城の典型的な事例といえ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランを創出している。その整った構成から、現在地表面から確認できる遺構が完成したのは、天正期(1573〜91)に下ると考えられる」と記されている。


 …と、こんな『小笹丸城跡』のようであります。
 小笹丸城跡への上り口には、車を駐車可能なスペースもありまして、『小笹丸城址へおいでの皆様へ 小笹丸城址への車の乗り入れはできません。ここからは徒歩でおこしください。美星町観光協会』の案内表示も(^-^)
 それでは、ここから、散策開始です(^-^)//"

 暫く小笹丸城跡に向かって進んでおりましたら、道端と言うか民家の進入路付近に犬小屋風のモノがブロックの上に…これは、何なんだろう?…と、よくよく見ますと、うん、うん、新聞受けでありました。
 ここが進入路の入口とは言いましても、玄関までは随分距離がありますから、新聞配達員さんへのご配慮で、ここに設けておられますのでしょうねぇ〜
 そしてまた進んで行きますと、この正面の山が「小笹丸城跡」なんだと思われます。
 何にも案内標識がありませんから、そのまま進んで行きますと、前方に土壁が崩れかけました老朽著しい建物が…そして、その先に民家が存在しまして行き止まりなのかも…

 小笹丸城跡には、何処から入るのだろう…と困惑しておりましたら、前方から車が下りて来ました。
 これ幸いと、車を運転しておられますご高齢の女性に「小笹丸城跡には、何処から上がりましたら宜しいのでしょう?」…とお尋ねしますと、後方を指差され「昔は標識があったのに今は無いけど、あそこから入ったらイィですよ。ただ、荒れてるから、どぅかな…」との事でありました。
 GONsanの後方を振り返りますと、うん、うん、確かに山への登り口が…

 見た感じでは手入れもされ歩けそうですから、上らなくては(^-^)//"

 教えて貰いました小笹丸城への上り道、比較的手入れもされておりまして歩き易いので進んで行きますと、スグに主郭(江戸時代の用語で本丸)下にと到着です。
 ここには、「小笹丸城縄張り図」と「小説家・遠藤周作氏直筆の石碑」が設置されておりましたけど、GONsanの背丈ほどあります雑草・笹・雑木に覆われて、主郭部分、城道がとりつく北と尾根つづきの東側に土塁、主郭から一段下の曲輪等は、とても見て廻ります事は出来ませんでしたネ。
 年に一度程度は、地元住民の皆様が手入れをされますのでしょうけど、それも春頃なのかも…この時期が一番雑木類が生い茂っています時期なのでしょうねぇ〜
 う〜ん、残念。せっかく訪れましたのですけど、とても散策は不能です。

 

 

 周りを見廻してもご覧の通りで、どちらに進んで行けばイィものやらサッパリ分かりません(^-^;
 手入れが行き届き、雑木も刈り取られましたら、この画像のような平坦地で散策も楽しめますのでしょうけど、現状ではとても無理。あえなく早々の退散となりました(^-^)
 往路では気付きませんでしたけど、復路では、雑木林の中にテレビのアンテナが…周辺の受信状況が悪いお宅が設置しておられますのでしょうけど、このアンテナも雑木で囲まれておりましたネ(^.-)☆

 せっかく訪れましたのですけど、この状況では散策もとても無理。
 訪れます時期が悪かったようであります(^-^)//"

 暫く下って来まして振り返りますと、小笹丸城跡が正面に…
 そして、足元に眼を向けますと、うん、うん、美星町ですから「空気弁」と「仕切弁」の絵柄には「美星天文台」が(^.-)☆
 ところで、よく見掛けますこの「空気弁・仕切弁」なんですけど、これにはどんな機能・役割がありますのでしょうねぇ…

 ◆仕切弁

 仕切弁とは給水装置の制水に使用するバルブのことを言います。給水管の配管途中に設置してあります。また、トイレなど各種機器類の手前に設置してあるような一部の給水装置を制水するものと、給水装置全部を制水するためのものがあります。

 ・仕切弁と止水栓の違いについて
 仕切弁は道路に埋設等されている配水管に使用されている弁のことです。
 一般的に配水管はアミダクジのように配水タンクから各個々の地域に配水されるよう配管してありますが、ある1箇所が漏水や破損しても他のルートを通っていつでも水がご家庭に行き届くようにしてあります。そこで、給水ルートを変えたりする時に水を仕切る弁を仕切弁です。止水栓は文字通り水を止める弁です。片方が開放になる可能性がある場合に使います。仕切弁やボール式止水栓は、構造的に流量調整ができないことはないのですが、長期間、流量調整したまま放って置くと弁が傷みやすいのでお勧めしていません。

 ◆空気弁

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 空気弁(くうきべん)とは、水道などの配管内にあって、空気を抜く、または空気を入れる役目を果たす弁である。「空気抜弁」などとも呼ばれる。水と空気の組み合わせが最も一般的であるが、他の液体用配管でも同様である。

 ・機能、仕組み
 1つの空気弁で排気と吸気の両方の機能を果たす。
 ・排気
 配管内の水に含まれる空気が少量ずつ分離し、やがて管内に溜まると円滑な流通が阻害されるようになる。配管内の凸部として空気弁を設け、この部分から空気を逃がす働きがある。また一旦水が抜かれたり新設された管路内に充水する場合、空気の逃げ道が必要となり、そのための空気の出口となる。通常時は空気弁の内部が水で充たされており、弁座とフロートが密着することで密封されている。
 空気弁の内部に空気がある程度溜まると、フロートが水に浮きながら水面位置まで下がるため、弁座とフロートの接触が解かれて外部に空気が流出する。空気の流出によって水面が上がるとフロートも上昇し、やがて弁座とフロートが密着することで再び気密が保たれる。空気流出過程のいずれにおいても内部の加圧状態が失われることはない。
 ・吸気
 工事等で管路から水を抜くには、どこかから空気を流入させねばならず、そのための空気の入口となる。空気弁の内部が負圧となることで外部から空気が流入する。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました。
 普段何気なく眼にしてはおりますけど、ふ〜ん、そんな役割がありましたか(^-^)//"

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