2021/06/22(火) 矢掛町「下道氏墓」& 真備町「琴弾岩・まきび公園・箭田大塚古墳」散策 <6/10>

 

 

 

 

 

 「まきび公園」内を一通り巡りましたので、また入口をくぐり公園外へ(^-^)
 観光マップで確認しますと、「真備公園」の廻りには、「備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑」「吉備大明神」「吉備公廟」「陸軍大将 一戸兵衛 揮毫 忠魂碑」「昭和天皇御大典記念神木」「八田神社」…と色々ありますようですから、この順番に巡ってみます事に(^.-)☆

 

 

 

 中国風の建物『六角亭』を背景に池の畔には、『吉備真備公顕彰碑』が…

 
◆【吉備真備公顕彰碑】

 故右大臣 故右大臣(吉備真備)は
 往学盈帰 往きて学び盈みちて帰る
 播風弘道 風を播ほどこし道を弘め
 遂登端揆 遂に端揆たんき(大臣)に登り
 式翼皇猷 式もって皇猷こうゆう(天子の政治)を翼たすけたり


 
この碑文は、平安京を開いた桓武天皇が、延暦3年(784)の勅みことのりのなかで、吉備真備公を讃えて述べた言葉である。

 ・碑文の意味

 吉備真備公は、中国唐の進んだ文化や政治制度を採り入れるために大海の波涛を越えて中国へ渡った。そして17年間様々な学問を学び、頭の中にいっぱい学問を詰めて帰国した。帰国後は日本の人々に新しい生活のあり方を教え、人として生きるための道徳を広め、遂に右大臣にまでに昇進して、天皇の政治を助けた。
 この吉備真備公顕彰碑は、吉備真備公を深く尊敬する真備町出身で倉敷市在住の宇渡宅二氏の協力のもと真備町文化協会が、日展作家の佐藤翠雲氏に揮毫を依頼し、真備町箭田の「まきび公園」に平成16年5月4日に建立除幕したものです。真備町は昭和27年に町が誕生した時、町名を吉備真備公にちなんで真備町と名付けました。それ以来、真備町は真備公を町のシンボルとして町づくりの核に捉え、「まきび公園」や「まきび記念館」をつくり、真備公ゆかりの中国西安市長安区との間で交流を続けてきました。--- (まきび記念館パンフレットより) ---


 それでは、「吉備公廟」に向かってみますけど、石段の上り口付近には、どなたかの銅像が…
 近付いてみますと、「高見章夫翁」の胸像です。WEB上で「高見章夫翁」を検索してみましたけど、特に記載はありませんでしたネ。地元の郷土史家・農学者のようであります。

 ・まきび公園内の陶製胸像・高見章夫像」
 (1877-1946 旧真備町尾崎・郷土史家・農学者・元郡長・山陽新報社)


 …と、この程度の記載はありました。
 それでは、石段を上がって「吉備公廟」に向かってみましょうか(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 石段を上がりきりますと、まず眼に入りますのが梵鐘です。傍らには石碑がありましたけど、文字の判読は不能でした(^-^)
 鐘楼からお寺のようにも感じますけど、ここが「吉備大明神」、そして「吉備公廟」と思われます。
 WEB上で、「吉備大明神・鐘楼」を検索しますと、

 
◆備真備の偉大さを梵鐘をついてたたえることができます。
 その昔、地元の人々が「吉備さま」と崇める宝きょう印塔がありました。江戸時代、岡田藩主伊東長貞が吉備真備のものと確認して以来、吉備公廟として広く信仰を集めています。拝殿右側に吉備公墓碑、奥に廟が鎮座。今も時を告げる梵鐘は自由につくことも。また、吉備真備が学問の神様として信仰されていることから、毎年1月第二日曜の合格祈願祭は多くの受験生でにぎわいます。


 …と、この程度の記載がありました。
 右側から建物の奥に向かってみますと、「吉備公墓碑」の説明板が。これには、こんな記載がありました。

 ◆吉備公墓碑

 備中国下道郡八田村は我が封内にかかわる。村に吉備公の墳あり。年祀綿藐、何人のたてたる所なるを知らず。今ここに弘化丁末、厳君長之に命じて曰く「公の文学功勲古今に照映するは天下の知る所なり、ただこの墳その久しうして湮滅するを恐るる故に、いしぶみにして之を明章せんと欲す、汝それ之を銘せよ」と。長之辞する能わず、謹んで接するに公のいみなは真備、父は右衛士の少将下道の朝臣圀勝たり、その先は吉備津彦命より出で代々吉備に居る。

 霊亀中、従八位の下をもって遣唐留学生となる、時に齢わずかに弱冠を超ゆ。経支に通名し、かたがた衆技に達す。我が朝の学生にして文名を異朝に馳する者公をもって先となす。孝嫌帝太子たるの時、召して学士となし恩寵特にあつし。天平十八年十月吉備の朝臣の姓を賜い、右大臣に累遷す。

 初め大学釈典の儀未だ備わらず、公すなわち礼典を考え器物初めて備わる。ここに於いて礼容燦然観るべし。藤原の仲麻呂の反するや、公その必ず走るをはかり、兵を遣わして之をむかえうつ。その策略指揮みな機宜に合し、旬を経ずして賊すでに平ぐ、その天下に勳労有るかくの如し。ああ公の文学功勲赫然照映、今に至って朽ちず、もとより言を假るなし。今厳君の命、それ銘して之を表せざる可けんや。公は持統帝七年癸巳三月二十八日に生まれ、實亀六年乙卯十月二日薨ず、年八十三。進退去就の義に至ってはすなわち世おのずから公論ありまた議せず。銘に曰く、王道を尊崇し礼楽を経緯す、文運をもって盛んに武功また卓たり、これ公の郷、流風永く存す。ここに石碑に刻み民をして忘れざらしむ。

 弘化四年歳次丁未冬十月
 領主 伊東播磨守藤原朝臣長寛立石 男 長之恭撰 長生敬書


 そして、その隣りには、「備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑」が。

 ◆備中岡田藩第八代藩主 伊東長寛 揮毫 吉備公墓碑

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 伊東 長寛(いとう ながとも)は、備中国岡田藩8代藩主。第7代藩主・伊東長詮の長男。

 ・略歴
 安永7年(1778年)閏7月24日、父長詮の死去により家督を継いだ。天明2年(1782年)2月18日、将軍徳川家治に拝謁する。天明3年12月18日、従五位下播磨守に叙任する。
 父の才を受け継いだ人物で、重臣の浦池九淵を重用して藩政改革を行なった。その結果、財政は再建され、寛政6年(1794年)には演武場、寛政7年(1795年)には藩校である敬学館を創設するなど、大いなる成功を収めた。
 はじめ五男・長禎(早世)、のち十一男・長之を世子としていたが、長之は病弱だったために廃嫡し、長禎の長男・長裕を世子とした。
 嘉永3年(1850年)6月11日に死去した。享年87。跡を長裕が継いだ。

 ◆吉備公廟

 石段を上れば吉備公廟。吉備真備を祀った廟で、地元では「吉備様」と呼ばれて親しまれているそうです。
 まきび公園の南側、急な石段の参道を上ると神社のような拝殿があり(しかしながら梵鐘もありお寺のようでもあります)、その奥に吉備真備(きびのまきび:奈良時代の学者)の吉備公廟が鎮座しています。
 廟の右手には、たくさんの絵馬が奉納されています。吉備真備は学問の神様として信仰されているので、合格祈願祭が行われる1月中旬には、たくさんの受験生が訪れるそうです。


 そして、建物の裏側には、吉備真備のお墓(吉備公墳)がありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

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