2021/04/27(火) 岡山県矢掛町「吉備真備公園」散策(^.-)☆ <2/3> |
藤棚と「館址亭」の間には、実に立派な樹木が…この樹木には「垂れ槐(シダレエンジュ)」の説明書きが。「垂れ槐」の後方の建物が「館址亭」です。
槐は「えんじゅ」と読み、中国産のマメ科の木のようであります。
◆エンジュ(槐)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
エンジュ(槐、Styphnolobium japonicum)はマメ亜科エンジュ属の落葉高木。中国原産。
・特徴
中国原産で、古くから台湾、日本、韓国などで植栽されている。和名は古名えにすの転化したもの。別名でニガキとよばれることもある。中国植物名は槐、または槐樹(かいじゅ)である。街路樹によく使われ、公園や学校などの庭木としても植えられる。
マメ科の落葉高木で、樹高は5-15メートル(m)になる。成木の樹皮は暗灰白色で、細かく縦にはっきりと裂ける。若木の樹皮は濃緑色で、皮目がある。一年枝は暗緑色で、無毛または短毛がある。
葉は奇数羽状複葉で互生し、小葉は5-10対あり、長さ3-5センチメートル(cm)の卵形で先端は尖り、全縁で、表面は緑色、裏面は緑白色で短毛がありフェルトのようになっている。小葉は、対につくか、交互につくかは変異があるため、固体によりばらつきがある。よく似る植物にイヌエンジュがあるが、イヌエンジュよりも葉は細身で、小葉の枚数は多い。
花期は7-8月で、枝先の円錐花序に細かい白色の蝶形花を多数開き、蜂などの重要な蜜源植物となっている。花の咲き方は、ややまばらに咲く。
果期は10-11月。豆果の莢は長さ5-8cmで、種子と種子の間が著しく、数珠のように大きくくびれる。枝には豆果が残り、裂開せずに冬でもねばつく。
冬芽は葉柄内芽で、膨らんだ葉跡基部に隠れるように一部だけが露出しており、濃褐色の毛に覆われている。仮頂芽はあまり発達せず、測芽は互生する。
また、シダレエンジュ(Styphnolobium japonicum var. pendulum、シノニムSophora japonica var. pendula)という枝垂れる変種があり、公園などに植栽される。
◆館址亭
中国家屋を再現した館址亭では手打ちうどんを販売し、観光客らの人気を集めている。
WEB上で、「槐」「館址亭」を検索してみましたら、こんな記載がありました。
ところでGONsanは、もう随分昔の16〜17年前に、この「吉備真備公園」に立ち寄りました記憶があるのですけど、こぅして公園内を散策しておりますと、当時訪れました時とは随分公園内の景観も様変わり。
当時は、総社市で開催の『吉備路マラソン』に参加しましての帰路に、観光と休憩を兼ねまして立ち寄りましたように思います。当時は、公園内にキレイな池があったように思うのですけど…
で、「館址亭」で、うどんでも食べながら尋ねてみよう…と入ろうとしましたら、既に閉店でありました(^-^;
『11:00〜14:00(麺終了次第)』の張り紙が…時間を確認しますと、P.M.3:00過ぎでありました。
仕方なく自販機で缶コーヒーを啜りながら一服しておりますと、店の方なのでしょうか…何処からか戻られました女性が店内に入ろうとしておられます。で、急いで近付き「この吉備真備公園は、昔と随分変わりましたネ。昔は池があったように思うのですけど…」と、声を掛けますと、「あぁ、皆さん、よく間違えられますのですよ。それは此処ではなくて、もぅ少し5kmばかり総社市方向に行きましたら有りますけど、それは『まきび公園』ですよ(^-^)」と笑いながら(^.-)☆
う〜ん、ヤッと納得のGONsanです。
吉備真備公園内を散策しながら、「一度訪れた事があるけど、16〜17年も経ると記憶も薄らいでしまう。そんなに昔でも無いのに、ほとんど記憶に無い…」と、内心、困惑しておりましたので、苦笑と同時に安堵感も(^-^)
それでは、「吉備真備公」像に向かってみます。
像の一段下には「日時計」と「石碁盤」が。吉備公が中国から伝えたとされる囲碁にちなんだ石造りの大碁盤ですネ。日時計も吉備公が中国から伝えたのかも…この画像を撮りますのと同時に時刻を確認しますと、P.M.03:15。当然の事なのでしょうけど、合っておりました(^-^)//"
吉備真備公銅像に上がりますと、此処には、像の右側に「吉備大臣入唐絵詞」「絵巻石屏風」が…
絵巻石屏風下に刻まれた説明文には、こんな記載がありました(^.-)☆
《絵巻石屏風下に刻まれた説明文》
◆絵巻石屏風
・吉備大臣入唐絵詞
奈良時代正二位右大臣に昇り軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、片仮名を創始する等、善政を布いた吉備真備は朱鳥九(六九五)年下道圀勝の長男として此処に誕生した。そして留学生又遣唐副使として再度唐に行き先進の文物を日本に請来し、国政に大きな功績を遺し吉備朝臣の姓を勅許され、後には正二位勲二等右大臣中衛大将兼備中国下道郡大領に累進し、宝亀六(七七五)年八十一歳で薨去(こうきょ)した。この吉備真備が遣唐副使として渡唐した時現わした才智に感じ玄宗皇帝が帰国させなかった逸話を絵巻物にしたものがこの吉備大臣入唐絵詞である。
・吉備大臣唐に着く
吉備大臣の乗った遣唐船が唐へ入港しついで群臣に守られながら迎えの馬で唐の都長安へ向かった。
・大臣知識を試される
唐人は吉備大臣の才智を恐れて高い御殿に閉じこめたが大臣は平気でいた。そこで唐人は、日本にまだ無い本で試すことを計画した。従者の知らせでこの事を知った大臣は博士の講義を従者に暗記させ文選の文章と判ったので、古い暦の裏へその文章を書き散らした。それから三日たって来た勅使は文選が書いてあるのに驚いた上に日本では誰でも知っていると言われ慌てて皇帝に知らせた。皇帝は大変口惜しがった。
・囲碁のためし
唐人達は大臣を囲碁で試す事にし名人と対戦させた。しかし持碁になりそうなので大臣は相手の黒石を一個飲みこんだ。後に石を数えた処名人は一目の負になった。占いで調べたら大臣の腹中にあると判ったので吐出薬を飲ませたが大臣は秘術を使って薬だけ吐いて碁石は吐出さなかったのでとうとう大臣の勝となった。
・野馬台の詩
絵にないが蜘蛛の糸に導かれて野馬台の詩の謎を解いて唐人を感心させた。
・日月をかくす事
又幽閉されたので大臣は呪文で双六の筒の中に日と月をかくした為に天地が暗闇になったが慌てた玄宗皇帝が帰国を許したので大臣は日月を元へ戻し再び空が明るくなった。吉備真備はこのように知識が広く深い人だった。
それでは、次に「古代の丘」へと向かってみます事に。
「古代の丘」への入口辺りには、「古代の丘」と「囲碁発祥之地」の石碑というか記念碑が(^.-)☆
「古代の丘」の記念碑には、こんな記載がありました(^-^)//"
◆古代の丘
古代の丘は飛鳥・天平時代を中心に古代の文化と知恵をモチーフとしたオブジェを配置し歴史を通じて生き続ける賢者の知恵や宇宙観にふれられる場を創作しました。金形は前方後円墳を形どり前方部のお立台は易の八卦に通ずる八角とし舞台にもなります。後円部は径三〇メートルの円形を玉石で縁どりここにつぎの三種のオブジェを古代祭祀遺跡の環状列石のように建てました。
一、方位石 四神と星座で表現しました。
二、風物石 唐の風俗、文化を表現しました。
三、歴史石 吉備公の生涯と功績をオブジェで表現しました。
--- (現地解説板より) ---
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