2021/03/23(火) 福山市駅家町「蛇円山公園」散策 <1/4>

 

 ■2021年04月14日14:17
 3/23(火)は、何10年振りかで蛇円山公園展望台へ(^.-)☆


 3/23(火)には、山歩きでもしようか…と、50余年振りに蛇円山に出掛けます事に(^.-)☆
 服部大池を通り抜け、県道398号線をさらに北上。暫く走行して行きますと小さな神社が…マップで確認しますと「荒神社」と記載。何にもありませんけど、何枚か画像に納めながら暫し休憩となりました。
 荒神社からは、標識に従い右方向へ。山頂まで、あと「5km」の記載がありました。
 この標識から暫く走行しますと、短区間ではありますけど実に狭い道が(^-^;
 少し大きめの車ですと、タイヤが縁石に乗り上げて走る事になりますかも…幸いにGONsanはコペン号ですから、どぅにか通り抜け出来ましたけど(^_^)v
 それでも、崖下に落っこちないだろうか…と、怖さはありましたネ。
 怖い箇所を通り抜け、振り返ってみましたけど、とにかく三流ドライバーのGONsanには怖くて狭い道でありました。周辺には民家も存在しますから、地元の皆様は、例え普通車でありましても難なく走行されますのでしょうねぇ〜帰路に、また走行しなければなりませんのがチョッと憂鬱なGONsanなのでありました(^-^)
 その際に眼にしました何本かのサクラ…まだ満開ではありませんでしたけど、結構、キレイでしたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫く走行し蛇円山へと上っておりますと、何やら案内板が眼に入り停止です。
 案内板には、「水源の森 名称:蛇円山 面積:8.04ha 広島県水源の森基金」と記載がありました。
 そしてまた進みますと、今度は「蛇円山登山道 →」の案内板が…車は直進で、歩いての登山者の方々には、矢印に従い上りますのが近道なのでしょうねぇ〜いずれにしましても、あと少しで蛇円山公園展望台に到着なのでしょうねぇ〜

 程なく蛇円山公園展望台へと到着で、駐車場には4台の車が駐まっておりました。ですが、蛇円山公園展望台広場での人影はお二人のみ。他の方々は、何処へ?
 この周辺を散策しておられますのかも…
 早速、GONsanも南方の福山都心部方向を眺望です(^.-)☆
 正面方向にボンヤリと瀬戸内海が…JFE方向ですネ。そしてその右側が芦田川の河口堰方向です。これまた、ボンヤリと芦田川大橋が、かろうじて確認出来ました(^_^)v
 眼下には、服部大池が…その服部大池から蛇円山方向にズラッと集落が続いております。随分昔から、こんな形で集落が存在しますのでしょうねぇ〜

 暫し蛇円山公園展望台から眺望を楽しみましたので、今から蛇円山頂上・高寵神社に向かってみます事に…
 蛇円山頂上・高寵神社へは、立派な、真っ直ぐな階段が続いておりまして、歩き易そうではありますけど、かなり長そうで一直線ですから、歩けば結構キイいかも(^.-)☆
 階段上り口には、『境外林 無償払下 記念碑』と刻まれました立派な石碑が設置されてありました(^_^)v
 そして、高寵神社のこんな案内板も…

 
◆高寵神社
 蛇円山頂に鎮座。雨の神様。約800年前、梶原影時が造営したといわれる。 この先 200M ↑ --- 服部まちづくり推進委員会 ---


 でも、「梶原影時」とは、どんな人物なのでしょう?存知上げないですから、WEB上で検索しまたら、こんな記載がありました。

 ◆梶原 景時

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。
 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。

 ・義経との対立

 寿永3年(1184年)正月、景時父子は源義仲との宇治川の戦いに参陣。源義経配下の嫡男・景季は佐々木高綱と先陣を争い武名を上げた。戦後、源範頼・義経・安田義定らは戦勝を鎌倉へ報告したが、いずれも「勝ちました」程度の簡単なものであったところ、景時の報告書だけが義仲の討ち取られた場所、様子、おもだった敵方の武将の死者と討ち取った者の名前など詳細に戦果を記しており、頼朝はその事務能力・実務能力の高さを喜んだ。
 同年2月7日の一ノ谷の戦いでは最初は景時が義経の侍大将、土肥実平が範頼の侍大将になっていたが各々気が合わず所属を交替している。範頼の大手軍に属した景時、景季、景高父子は生田口を守る平知盛と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをした。合戦は源氏の大勝に終わり、この戦いで景季は平重衡を捕えている(『平家物語』、『源平盛衰記』)。
 2月18日、景時は土肥実平とともに播磨・備前・美作・備中・備後5か国の守護に任じられた…


 …と、こんな人物でしたようです(^.-)☆
 ついでに、「蛇円山」「高寵神社」を検索してみましたら、こんな記載もありました(^.-)☆

 ◆蛇円山

 福山市北部の駅家町にそびえる蛇円山(じゃえんざん=545.5メートル)は、その姿から「備後富士」と呼ばれる。天龍が天下った伝説があり、頂上の高寵(たかおかみ)神社には雨の神様が祭られている。

 ・山頂の高寵神社(たかおかみじんじゃ)
 本殿は「800年前に原城主梶原平三影時が造営したと言われている」
 祭礼は毎年4月第3日曜日。この日は地元や近郊からの氏子さんが沢山参拝に訪れています。標高は545M。

 ◆蛇円山(じゃえんざん):545.8m 広島県福山市新市町

 ・山の概要
 蛇円山は備後平野(神辺)の北部、吉備高原南端に位置し、備後富士の名を冠する標高545.8mの山である。昔、天龍が天下ったと云う伝承から来ており、山頂には約800年前、梶原景時が造営したとされる高寵神社(たかおかみじんじゃ)が祭られている。
 登山道は野呂往還と呼ばれる道を辿る。蛇円山の北、藤尾ダムの南にかって栄えた藤尾銀山から銀を運び出すための道で、一説には鉱山から蛇円山を通り、JR福塩線戸手駅西側辺りへ通じる尾根道だったという。

 

 

 

 

 

 

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