2021/11/21(日) 備陽史探訪の会『備北の王墓と帝釈峡を訪ねて』に参加 <2/6>

 

 

 

 

 古墳の中に入ってみます事に…
 入ってみますと、うん、うん、結構広いです。確かに、「県内有数の大型横穴式石室の古墳として、県内でも最大規模であることが確認されました…」と言うのも、頷けますネ(^.-)☆
 羨道入口付近の天井石は新しそうですから、古墳調査時に修復されましたのでしょうねぇ〜
 墳丘に上がりますと祟りでもありそうですけど、今までも各地の墳丘に上がっておりますから、今更躊躇もなんですから、構わず墳丘から眺望です(^-^)
 充分に古墳を拝見しましたので、ソロソロ退散です。
 帰路では民家の庭先にひょうたん型のカボチャが6個ばかり無造作に置かれてありました。
 それを、熱心に画像に納めておりましたら、農作業の手を休め年配の女性が、「食べてでしたら差し上げますよ(^-^)」とおっしゃるので、有難く、遠慮無く1個頂きます事に(^_^)v
 GONsanの周辺に数人おられましたから、この方々も遠慮無く貰っておられました(^.-)☆
 我が家の畑のカボチャは普通の形ですけど、どぅしたら、こんな瓢箪型のカボチャが出来ますのでしょうねぇ〜種類が違うのでしょうけど…

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐櫃古墳とお別れしますと、次に向かいますのは、「佐田谷・佐田峠墳墓群」であります。
 国道183号線バイパス工事を施工に伴い発見されましたようで、令和3年10月11日付け官報告示により、国史跡に指定されましたとの事であります(^.-)☆

 ◆佐田谷・佐田峠墳墓群」が国史跡に指定されました -- 庄原市

 --- http://www.city.shobara.hiroshima.jp/main/education/shogaigakushu/cat02/post_1472.html ---

 佐田谷・佐田峠墳墓群は、庄原市高町・宮内町に所在する弥生時代中期末から後期前葉に(紀元前1世紀〜1世紀頃)にかけての墳墓群です。
 西城川左岸の標高300mの低丘陵の頂部に築造された四隅突出型墳(よすみとっしゅつがたふん)丘墓3基、方形台状墓4基、方形周溝墓1基の8基からなる墳墓群です。
 おおよそ東西250mの範囲に、佐田谷1〜3号墓、佐田峠1・2号墓、佐田峠3〜5号墓の3群にまとまる形で造られています。
 現在、国道183号線と国道183号線バイパス(高道路)が、墳墓群の間に通っており3群がそれぞれ陸橋で繋がっています。

 弥生中期末には、古層の四隅突出型墳丘墓が中心に多様な形態の墳墓が、墓穴の掘削・埋葬・墳丘盛土を繰返して行くことで徐々に墳墓を構築していることがわかりました。
 墓穴は並列に配置され、在地系の土器が周溝に据えられていました。
 弥生後期初頭以降は方形台状墓が主となり、墳丘構築後に墳頂部から墓穴が掘り込まれる墳丘構築法に変化して行くことが分かりました。
 また、弥生中期までの墓穴とは異なり、明らかに大規模墓穴を中心に周囲に他の墓穴が配されるなど、明確な中心埋葬がみられるようになることがわかりました。それに加え、吉備系土器が使用され、墓穴上に土器が供献されるように変化しています。
 このように、首長墓(傑出した個人のための墓)が出現する、弥生時代中期から後期にかけて、墳丘築造方法と埋葬の関係、埋葬施設の配置、墳墓での祭祀さいしの変遷が一つの丘陵上の墳墓群の中であきらかとなった事例として注目されています。
 当時の、地域間の交流や関係の展開、有力者集団内の構造の変化を知ることができる重要な遺跡となりました。

 ◆「佐田谷・佐田峠墳墓群」が国史跡に指定されました

 --- http://www.city.shobara.hiroshima.jp/info/post_535.html ---

 ・令和3年10月11日に国史跡に指定されました
 令和3年10月11日付け官報告示により、国史跡に指定されました。
 庄原市では、寄倉岩陰遺跡(昭和44年史跡指定)に次いで、2例目の国史跡となります。
 ※ 国指定史跡とは、我が国にとって歴史上または学術上価値が高く、継続的な保護・活用が必要な遺跡等をさし、国の文化財審議会の答申を経て、文部科学大臣が指定するものです。

 【概要】
 佐田谷・佐田峠墳墓群は、庄原市高町・宮内町にまたがる丘陵に所在する弥生時代中期末から後期前葉にかけての墳墓群です。
 四隅突出型墳丘墓3基、方形台状墓4基、方形周溝墓1基の8基からなる遺跡です。
 弥生時代における墳丘築造と埋葬関係、埋葬施設の配置、墳墓祭祀の変遷を知ることができる重要な遺跡として国史跡となります。

 ◆広島県の文化財 -- 佐田谷・佐田峠墳墓群

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-20211011.html ---

 【解説】
 佐田谷・佐田峠墳墓群は、弥生時代中期末から後期前葉(紀元前1世紀〜1世紀頃)にかけて築造された、四隅突出型墳丘墓3基、方形台状墓4基、方形周溝墓1基の8基からなる墳墓群である。西城川左岸の標高約300mの低丘陵頂部、おおよそ東西250mの範囲に3群にまとまる形で造られている。
 弥生時代中期末には古相の四隅突出型墳丘墓を含む多様な形態の墳墓が、墓坑の掘削・埋葬と墳丘の盛土を繰り返すことで徐々に構築されている。また、墓坑は並列に配置され、主に在地系の土器が周溝に据えられる。その後、弥生時代後期初頭以降には墳形は方形台状墓が主となり、墳丘の構築後に墳頂部から墓坑が掘り込まれるようになる。また、大型墓坑を中心に、周囲に他の墓坑が配される墳墓が現れるなど、明確な中心埋葬がみられるようになる。それに加えて吉備系の土器が使用され、墓坑上に土器が供献されるようになる。
 日本列島において首長墓が出現する弥生時代中期から後期にかけて、墳丘築造と埋葬の関係、埋葬施設の配置、墳墓祭祀の変遷が同一の墳墓群の中で明らかになった事例であり、地域間関係の展開と有力者集団内の構造の変化の実態を知る上で重要である。


 …と、こんな重要な墳墓群でありますようです(^-^)//"

 

 

 

 

 まず、佐田谷1〜3号墓に向かいます。
 ここは、昭和61年頃に発掘調査が行われましたようですけど、現在は、元通りに埋め戻されております。当時の発掘調査時の写真で説明して頂きました(^.-)☆

 

 

 

 

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