2021/05/31(月) 福山市駅家町「粟塚古墳の丘」散策 <1/2>

 ■2021年07月07日13:22
 5/31(月)は、福山市駅家町・加茂町の「古墳巡り」を何ヶ所か(^.-)☆(19)


 「江木神社・猪ノ子古墳」とお別れしますと、次は、近くの福山北産業団地内に、粟塚古墳の丘(あわづかこふんのおか)と言う古墳公園に向かってみます事に(^.-)☆
 「粟塚古墳の丘」も、WEB上に色んな方々が綴っておられますので、事前学習も兼ね拝見です(^-^)


 ◆粟塚古墳の丘

 --- http://kamochi52.blog.fc2.com/blog-entry-145.html --- 2020/05/31 20:08

 広島県福山市駅家町
 福山北産業団地内に粟塚古墳の丘(あわづかこふんのおか)という古墳公園があります。
 もともとここにあった粟塚古墳群の他に、狼塚2号墳と正福寺裏山1号墳を産業団地を造るときに移築保存。この3つの古墳群を合わせて、粟塚古墳の丘を形成しています。
 グーグルマップで検索すればヒットする、わかりやすい古墳群たちです。
 結構広い公園ですが、産業団地内のせいか駐車場はなし。公園の入り口付近に短時間なら停められそうでした。
 近くに尾市1号や大坊古墳、大佐山白塚などの素晴らしい終末期古墳があるので時間があればセットで見学もありですね。石室の構造の違いを見るのも面白そうです。

 ◆古墳のお部屋ブログ館

 --- https://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-965.html ---

 粟塚古墳群
 広島県福山市(旧駅家町)2007年3月訪問 8基中、6基現存、5基を公園として保存

 (見学記)
 福山北産業団地東端にある古墳群で8基中6基が現存しています。団地造成に伴い発掘が行われ5基が粟塚古墳の丘公園として復元保存されています。古墳のすぐ側まで車で行けますが駐車スペースが狭いので前の道路に止めて歩いて行った方がいいかも(すぐ前の工業団地区画は工場が全く進出していない)。
 最大の3号墳は周溝や墳丘の一部が発掘されただけで本体はそのまま保存、粘土槨があるそうだ。周溝にも突出部がありますが現状ではその表示はない。周辺の5、6、7、8号は石室基部だけ残っていて周溝や墳丘の一部を復元して展示されています。説明板を見て緑色の部分が保存されていて最大の3号墳は殆ど削平かと思ったが見てみると全くそんなことはない。よく見たら緑色の部分は発掘場所でした。
 と言うことは説明板に載っている1号も存在するんだと思って公園の外側に出たらちゃんとありました。それも一番大きな石室でラッキー。石室は羨道は殆どか遺失しているようで現存長4m程、一番奥の天井石も玄室内に落下していますが残った1枚の天井石はかなりの巨石、奥壁も巨石の鏡石を据えています。公園南側の2号は痕跡程度のようだ。
 この公園内には他にも狼塚2号、正福寺裏山1号が移築されています。狼塚2号は全長5.4mの横穴式石室で神辺町大坊古墳の1/2の大きさで設計されているそうです。入り口に柵があって中には入れませんがちょっと中途半端、子供だと中に入れそうだ(子供だけがここに来るとは思えないが)。
 正福寺裏山1号は長さ2.6mの竪穴式石室、暗渠排水溝があるのが珍しい。ただこの排水溝が急斜面に設置されているので石室といっしょに撮れないんだよね。

 --- 2013-02-21(10:35) ---

 それでは、「粟塚古墳の丘」に向かってみますけど、車は、福山北産業団地内の古墳公園入口に設置された「粟塚古墳の丘」の案内板前の路傍に駐車です(^-^)
 舗装された進入路をノンビリと歩いて向かいましたけど、程なく「粟塚古墳の丘」にと到着です。
 公園内にと入りますと、こんな「粟塚古墳の丘」の案内板が…

 ◆粟塚古墳の丘

 この丘は、駅家賀茂地区内陸型複合団地の造成工事に伴って発掘調査した「狼塚2号古墳」と「正福寺裏山1号古墳」を移築し、もとからこの地にあった「粟塚古墳群」とともに環境整備したものです。
 粟塚古墳群はこれまで4基の古墳が確認されていましたが、移築に伴う発掘調査で、用地内から新たに4基の古墳(粟塚5号・6号・7号・8号古墳)と、粟塚3号古墳の周溝が見つかったため、今回の整備に伴って景観を修復しました。
 また、古墳が造られる以前に、弥生時代後半の住居跡や柱穴、土坑(ゴミ捨て穴)、井戸などがあったことが確認されましたが、現在は埋め戻しています。
 公園の周辺には、南東側に横穴式石室の「粟塚1号古墳」があります。南側には、現在は壊されていますが、横穴式石室の「粟塚2号古墳」の跡が残っています。このほか、北西130mの所にある給水塔の西には、横穴式石室の「粟塚4号古墳」がありました。この古墳の石室からは、須恵器の杯・高杯・堤瓶・平瓶・土師器の高杯、銅製耳環(耳飾り)、鉄鏃など多数の遺物が見つかっており、古墳時代後期(6世紀後半)に造られた古墳と考えられます。

 --- 1999年3月 福山市教育委員会 ---

 
…と、こんな『粟塚古墳の丘』であります。
 そして、この案内板の真ん前に存在しますのが「狼塚2号古墳」でありました。狼塚2号古墳脇にも説明板が設置されていますので、眼を通しますと、


 ◆狼塚2号古墳(移築)

 狼塚2号古墳は、この場所より約250m北西の丘陵頂部に近い南斜面にあった古墳です。
 墳丘は直径約12mの円墳で、周囲に幅2m〜2.8m、深さ約40cmの溝を巡らせています。石室は全長約5.4m、高さ1.5mで南南東の方向に開口していました。
 石室と羨道との間には、南側の側壁から約30cm〜40cm、天井から約40cmほど石材を張り出して玄門と梁が設けられていました。
 このような造りをした古墳は、周辺では大佐山白塚古墳(新市町戸手)や大坊古墳(神辺町中条)などの切石を用いた横穴式石室にもみられます。さらに、この古墳は、大坊古墳のほぼ半分の寸法で造られており、これらの大型石室墳と同様の技術をもった集団によって造られたことが考えられます。
 石室が早くから開口していたため、遺物はほとんど残されていませんでしたが、石室内部の堆積土から須恵器の破片、馬具と思われる締め金具、滑石製管玉などが見つかっています。
 出土遺物や石室の構造などから、古墳時代終末期(7世紀前半)に築造された古墳と考えられます。

 
…と、こんな「狼塚2号古墳」でありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、順番に各古墳を巡ってみます。
 粟塚7号古墳近くに説明板が設けて有りますので眼を通してみますと、

 ◆粟塚5号古墳〜8号古墳

 粟塚5号古墳〜8号古墳は、横穴式石室を埋葬施設にもつ円墳で、墳丘の周囲には溝を巡らせていました。石室の床には、浅い排水溝が彫られているものもありました。
 早くから天井石や側壁の石が抜かれ、石室内の遺物もほとんど持ち去られていましたが、7号古墳の石室入り口付近では、須恵器の平瓶と杯が完全な形で見つかりました。
 これらの古墳は、石室のようすや見つかった遺物から、いずれも古墳時代後期〜終末期(6世紀後半〜7世紀前半)に造られた古墳と考えられます。

  古 墳 名 墳丘直径 周溝幅   周溝深さ   石室の長さ 石室の幅 石室の高さ
  5号古墳  8.0m (1.6〜2.0m) (0.20〜0.7m) 3.40m   0.9m   (1.05m)
  6号古墳  6.4m (0.8〜1.5m) (0.25〜0.3m) 3.63m   0.8m   (0.96m)
  7号古墳  6.0m (0.7〜1.5m) (0.25m   ) 2.10m   1.0m   (0.95m)
  8号古墳  5.2m (1.7m   ) (0.30m   ) (1.7m)   1.0m   (0.74m)
  ※ ( )内は現存値、単位はメートル


 …と、こんな記載が。
 粟塚7号古墳・粟塚6号古墳を巡り丘の上に進みますと、頂上部に「粟塚3号古墳」が…
 ここにも、説明板がありました。

 
◆粟塚3号古墳

 粟塚3号古墳は、直径21m、高さ2.5mの円墳です。本格的な調査は行われていませんが、試掘調査では、墳丘中央部から粘土で木棺のまわりを覆った埋葬施設(粘土槨)が確認され、埋葬施設の真上から鉄片が1点見つかっています。
 また、環境整備に伴う発掘調査では、墳丘の周囲に幅約2m、深さ30cmの溝を巡らせ、溝は南東側で幅4m、長さ2mにわたって方形に張り出していることが明らかになっています。
 時代を示す遺物は見つかっていませんが、埋葬施設の様子から、古墳時代前期(4世紀)に造られた古墳と推定されます。


 …と、こんな古墳でありました(^-^)//"

 

 

 

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