2021/06/02(水) 備後国福山藩第9代藩主「阿部正方公墓所」散策 <1/3>

 ■2021年06月23日13:25
 6/2(水)・備後国福山藩の第9代藩主「阿部正方公墓所」散策


 以前、GONsanも福山藩藩主・阿部正方のお墓を訪れました事がありますけど、5/30(日)の中国新聞sanの朝刊記事に、福山藩の家臣の子孫で構成の「鷹の羽会」のメンバーによる阿部正方藩主の墓周辺の清掃が記事掲載に。
 ふ〜ん、「鷹の羽会」のメンバーの皆様で、毎年、春と秋の2回、周辺を清掃されますようですネ。…と、言う事は、この時期に訪れますと、お墓周辺もキレイに整備されました状態ですネ(^.-)☆
 …と言う訳で、6/2(水)には、備後国福山藩の第9代藩主「阿部正方公墓所」を散策となりました。

 我が家をA.M.10:45に出まして、車は「北本庄庭球場」の駐車場に駐めようと向かいますと、広島県の緊急事態宣言発令中でテニス場は休止中。残念(^-^;
 仕方なく、ごく短時間という事もありまして、テニス場への進入路の路傍に駐める事となりました(^-^; まぁ、既に1台の車がGONsan同様に駐めておられましたが(^-^)
 阿部正方公墓所までは、ここから歩いてスグなんです。
 テニスコート南方に存在しますのが「小坂山」で、テニスコート近くに墓所案内図も設置されておりますから、初めて訪れます方でも分かり易いと思います。
 墓所入り口には、一応、フェンスで閉じられてはいますけど、フェンス右端は隙間がありますから、充分進入可能です。フェンスには案内板もありまして、右端から入るようにとの説明も(^_^)v
 墓所清掃の直後ですから、墓所への進入路脇には伐採されました樹木が集められ、いかにも清掃直後が伺われましたネ(^.-)☆

 ◆阿部 正方

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 阿部 正方(あべ まさかた)は、江戸時代後期の大名。備後国福山藩の第9代藩主。官位は従四位下・主計頭。阿部家宗家13代。

 ・略歴

 第6代藩主・阿部正寧が隠居後に儲けた3男として江戸にて誕生。
 文久元年(1861年)に第8代藩主の兄・正教が嗣子のないまま早世したため、同年6月17日に14歳で家督を継ぐ。2年後の文久3年(1863年)から京都警護の任にあたり、7月19日に福山へ一端帰国して、8月5日から藩兵約1,800人を率いて山城国八幡に宿陣した。
 元治元年(1864年)、正方は幕府から第一次長州征討の先鋒を命じられ、藩兵約6,000人を率いて安芸国広島(広島県広島市)に出征する。そして、福山藩軍の広島到着から間もなく、幕府と長州藩との和睦が成立しようとしていたところ、急遽幕府から日光警護の下知がもたらされた。これは福山藩が幕府への忠誠を疑われたことによるものと思われ、帰陣後、正方は尊皇派の藩士5人を処罰している。
 翌慶応元年(1865年)11月、福山藩は再び長州征討(第二次)を命じられ、12月10日正方は藩兵を率いて出陣する。しかし翌年(1866年)6月7日、石見国を進む途中に正方は病(脚気と思われる)を悪化させ、指揮を家老内藤角右衛門に委ねて粕渕(島根県邑智郡)に留まることになった。正方を残した本隊は6月17日に石見国益田(島根県益田市)で長州藩と交戦して敗北した。翌日、粕渕で敗報を聞いた正方は軍の立て直しを命じるが、幕府軍が6月18日に長州藩に敗北したため、正方は撤兵を決意し、7月23日に福山へ帰還した。

 その後、大政奉還、王政復古、と政局が激動する中、福山藩は態度を決めかねていたが徳川譜代であることから立場を危うくしていった。そのため長州藩の侵攻に備えて福山城の弱点とされる北側に胸壁を築き、城下に番所を増やすなど、防備を強化に取り組んだ。そして、慶応3年(1867年)11月22日、戊辰戦争の前哨戦として長州藩軍(新政府軍)が領内に迫ろうとする時、正方は病を悪化させ、福山城内にて20歳で死去した。
 時局多端のため正方の死は秘され、翌慶応4年(1868年)1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前、城内北西の小丸山に仮埋葬された。その後明治2年(1869年)の8月中旬になって正方の亡骸はようやく深津郡本庄村(福山市北本庄町)の小坂山に本葬された(現在の小坂山神社)。福山藩の阿部家歴代藩主で唯一、福山に眠るのが正方である。

 ・死後

 正方は未婚であり、阿部家の血筋は本来断絶であるが、明治維新の混乱に乗じてそのことは隠匿され、数か月後、安芸広島藩から藩主浅野長勲の弟・浅野元次郎が7代藩主・正弘(正方の叔父)の娘と婚姻することにより養子として迎えられ、戊辰戦争最中の慶応4年(明治元年、1868年)5月20日に福山城へ入って阿部正桓と名乗って跡を継いだ。この養子縁組は福山藩存続の画策であったとする説がある。親朝廷方であった浅野家の親族を養子にすることで、幕府重鎮であったはずの阿部家を存続させる、ということである。同年の年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城が行われている。

 ・治政

 正方は藩政においても、江木鰐水や関藤藤陰などの優秀な人材に恵まれたこともあり、若年にもかかわらず多くの難局に対処している。破綻しつつあった藩財政に対しては主に新田開発、中でも慶応元年(1865年)に始まる、約320ヘクタールと藩史上最大の大新涯(現在の福山市新涯町一帯)造成など、殖産による財源確保を目指した(ただし、この大新涯は第二次長州征伐により中断し、完成は明治以降になった)。また、治安対策にも取り組み、藩内の農民を集め「郷兵」を組織して領内の警衛に当たらせた。正方は7年間の短い治世であったが多くの施策を実施している。

 ・系譜

 父:阿部正寧(1809-1870)
 母:不詳
 婚約者:徳川斉昭の娘(婚姻前に正方が没)
 養子:男子--阿部正桓(1852-1914) - 浅野懋昭の三男

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 阿部正方公墓所にヤッて来ますと、周辺は「鷹の羽会」のメンバーの皆様により、大変キレイに清掃されておりました。

 ◆福山藩 歴代藩主一覧

 1代 水野 勝成(かつなり) 1619(元和05)〜1639(寛永16)1564(永禄07)〜1651(慶安04) 福山藩初代藩主 奈良県大和郡山より移封
 2代 水野 勝俊(かつとし) 1639(寛永16)〜1655(明暦01)1598(慶長03)〜1655(明暦01)
 3代 水野 勝貞(かつさだ) 1655(明暦01)〜1662(寛文02)1625(寛永02)〜1662(寛文02)
 4代 水野 勝種(かつたね) 1663(寛文03)〜1697(元禄10)1661(寛文01)〜1697(元禄10)
 5代 水野 勝岑(かつみね) 1697(元禄10)〜1698(元禄11)1697(元禄10)〜1698(元禄11) 跡継ぎ不在の為 水野家断絶
 6代 松平 忠雅(ただまさ) 1700(元禄13)〜1710(宝永07)1683(天和03)〜1746(延享03) 出羽山形から入封 11年で伊勢桑名へ
 7代 阿部 正邦(まさくに) 1710(宝永07)〜1715(正徳05)1658(万治01)〜1715(正徳05) 宇都宮から移封
 8代 阿部 正福(まさよし) 1715(正徳05)〜1748(寛永01)1700(元禄13)〜1769(明和06) 大阪城代
 9代 阿部 正右(まさすけ) 1748(寛永01)〜1769(明和06)1724(享保09)〜1769(明和06) 総者番・寺社奉行 京都所司代・老中
 10代 阿部 正倫(まさとも) 1769(明和06)〜1803(享和03)1745(延享02)〜1805(文化02) 奏者番・寺社奉行・老中
 11代 阿部 正精(まさきよ) 1803(享和03)〜1826(文政09)1774(安永03)〜1826(文政09) 奏者番・寺社奉行・老中
 12代 阿部 正寧(まさやす) 1826(文政09)〜1836(天保07)1809(文化06)〜1870(明治03)
 13代 阿部 正弘(まさひろ) 1836(天保07)〜1857(安政04)1819(文政02)〜1857(安政04) 奏者番・寺社奉行・老中 日米和親条約の締結
 14代 阿部 正教(まさのり) 1857(安政04)〜1861(文久01)1839(天保10)〜1861(文久01)
 15代 阿部 正方(まさかた) 1861(文久01)〜1868(慶応04)1848(嘉永01)〜1867(慶応03) 京都守護・長州征伐 実は1867年没
 16代 阿部 正桓(まさたけ) 1868(慶応04)〜1869(明治02)1851(嘉永04)〜1914(大正03) 1869〜1871 福山藩知事


 福山藩主として著名なのが第7代藩主「阿部正弘公」なんですけど、WEB上にこんな内容で綴っておられます方が…

 ◆老中阿部正弘公と徳川斉昭公の関わり、正弘公の墓所について

 --- 2017.3.13 https://iineiineiine.net/110.html ---

 ・徳川斉昭公との関わり

 阿部正弘(まさひろ)公は江戸幕府の非常に高い地位である「老中」のトップ、老中首座となった方ですが、海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)という役職を強化しました。この役職は外交や国防に対応するために作られていたものだそうです。
 正弘公はこの役職の参与(組織、この場合は海岸防禦御用掛、のトップを補助する立場のようです)として水戸藩の前藩主である徳川斉昭(なりあき)公を参加させています。これは越前藩の松平慶永(よしなが)公や薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)公の意見を取り入れた人事だったそうです。しかし日米和親条約が結ばれた後に斉昭公は参与を辞めています。斉昭公は和親条約を結ぶことに反対の立場だったそうです。
 斉昭公は異国の要求に屈して開国することに反対する攘夷派の方で、幕府内の開国論者の方々と対立関係にあったようです。正弘公は老中のトップという立場上攘夷派、開国派の政争が激化しないよう調整をしなければなりませんでした。
 また第13代将軍徳川家定(いえさだ)公の跡継ぎ問題が出てきたとき正弘公は一橋慶喜(よしのぶ)さんを推す立場、一橋派だったと言われています。一橋慶喜さんは第15代将軍徳川慶喜公ですがこの方の父親は徳川斉昭公です。

 ・阿部正弘公の墓所

 阿部正弘公は老中在職中に亡くなられました。亡くなられたのは39歳の時です。非常に若いですね。正弘公のお墓は東京都台東区谷中7丁目にある都立の霊園、谷中霊園の中に存在しているそうです。
 霊園内に寛永寺の敷地がありその敷地内に正弘公のお墓があるそうです。寛永寺というお寺は徳川将軍家と関わりの深いお寺という事で有名らしいですね。

 ・正弘公がおこなった事

 ペリー提督が初めて来航した時には老中のトップとなっていた正弘公ですが、米国が求めてきた開国要求にどのように対応したらよいか幕府内での相談だけで決めるという方針をとりませんでした。それまでは幕府のお偉方の中で重要事項を決めていたそうです。
 しかし非常に重大な事件だったからなのでしょうか、朝廷に報告し、幕府のお偉方だけではなく普通の幕臣やいわゆる外様大名にまでアメリカの対日要求に関しどのような意見を持っているか問い合わせるという行動に出ました。これによって大名の発言力が大きくなったと言われています。幕府の立場からするとこの振る舞いは不利益だったという事なのでしょうか。
 他に江戸湾に砲台を築いたり、海軍力を増強するため500石以上の船を持たせないように江戸幕府の初期から作られていた「大船建造の禁」という規制を撤廃しています。これによって幕府だけではなく他の大名も海軍を持つことが出来るようになりました。
 また洋式の砲術などを学ぶことのできる訓練所である講武所や海軍教育機関の長崎海軍伝習所を作っています。国防力増強に熱心だったようです。
 他の大名などに広く意見を募るという行為が幕府の足元をぐらつかせるという結果となったのは非常に有名なことのようです。
 正弘公としてはより良い意見が無いだろうかという考えからとった行動だったかもしれませんが、その後幕府内から相当な反発があったようですね。
 しかし幕府内だけで決めて和親条約を結ぶようなことをしたら、それはそれで朝廷をないがしろにしたという理由で他の藩からの批判は非常に強まったのではないでしょうか。いずれの方針をとってもどこかから強い反発が出る非常に大変な立場だったということなのかもしれません。
 先ほども書きましたが正弘公は39歳という若さで亡くなられています。死因はわかりませんが老中在任中になくなったのですから重い病気で療養していたわけでもないですよね。この時期に日本のかじ取りをするというのは本当に厳しかったのだろうなぁと感じた次第です。

 

 

 

 

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